著者より:『商学への招待』
有斐閣ブックス
2013年08月刊
→書籍情報はこちら
著者の石原先生が本書の刊行にあたって『書斎の窓』(2013年12月号)にお寄せくださったエッセイを以下でもお読みいただけます
◆今さらなぜ 「商学」 なのか◆
商学部人間が商学を知らない
私の個人的な経歴からはじめることをお許しいただきたい。 私は一九六一年に徳島商業高等学校を卒業して神戸商科大学 (現兵庫県立大学) に進学した。 同大学は、 当時は商経学部のみの単科大学であった。 一九六五年、 同大学を卒業後、 神戸大学大学院経営学研究科に進み、 四年後の一九六九年、 同大学院を退学して大阪市立大学商学部の助手となり、 そのまま同学部で三七年を過ごした。 二〇〇六年、 同大学を定年退職後、 関西学院大学商学部に五年間在籍して、 二〇一一年に再び定年を迎え、 それ以降、 流通科学大学商学部に籍を置いている。
ご覧のとおり、 学生、 院生、 教員としての五〇年を超える大学とのつきあいの中で、 大学院の四年間を除き、 あとは 「商」 の近くにいた。 しかし、 私はその間、 「商とは何か」 にきちんと向き合ったことはなかった。 商業高校の科目に、 「商業一般」 や 「商事」 という科目があったような記憶がかすかにある。 内容は忘れたが、 手形や証券、 金融、 貿易などを含めて、 商取引にまつわるさまざまな側面を一つの科目の中で学んだことは確かである。
そのときにはまったく意識しなかったが、 これが 「商」 を全体として学んだ最初にして最後であった。 大学に職を得てからは商学部一筋で四五年目を迎えているが、 「商」 ないし 「商学」 とは何かを語りかける講義科目が置かれたことはなかった。
私が最初に教壇に立って講義をしたのは 「商学概論」 であった。 大阪市立大学に職を得て二年目だったと思う。 近隣の大学での非常勤講師を依頼され、 とてもではないが私の手に負えないとお断りしようとした。 しかし、 仲介して頂いた大先生から、 「いずれうちでも授業はすることになる。 その稽古だと思ったらいい。 商学? 大丈夫、 商業論でいい。 それならできるやろ。」 と言われてしまった。 先方もそれでいいということになれば、 断りようもなかった。
本当に 「商学」 を 「商業論」 に置き換えていいのか。 高校時代に習った 「商」 のひろがりが、 その頃はまだほんの少し記憶に残っていた。 とてもではないが、 商業論ではそんなにひろがらない。 商の重要ではあるが一部を取り出して、 それが全体の中でどのような位置づけにあるのかさえ語らずにお茶を濁してしまった。 そんな罪の意識が私の中に強く残った。 この大学への非常勤は、 数年後、 同大学が改組して科目群を再編したのを機に辞めさせてもらった。
影が薄くなる商学
学部学生の時代には抽象的な商業経済論に没頭していた私であったが、 大学院に進学するとマーケティングを研究しようと思った。 しかし、 当時のマーケティング論は今日のそれとはまったく異なっていた。 戦略論などはまだかすかに入り始めたばかりで、 経営者にヒアリングをするなどということはまったく考えられもしなかった。 意思決定の問題として捉えるという視点は、 少なくとも私の周りにはほとんどなかった。
マーケティングというのだから、 集計された事象ではなく、 個々の企業の行動に関心を持つのだが、 あくまでも第三者的に、 外からそれを観察する。 それが私にとってはごく自然な捉え方だった。
一九七〇年代の初め頃、 マクロとミクロという言い方が流行ったことがある。 戦略論が本格的に入り始め、 それがミクロと称された。 ミクロ・マクロ・リンケージの問題なども、 大まじめに議論した。 しかし、 その中で、 多くの人が戦略論をミクロと言うのには大いなる違和感があった。 私がやろうとしていることは確実にミクロであるはずだ。
しかし、 意思決定や戦略論ではない。 このことを年配の先生に話したとき、 「みんながミクロという言葉を適当に使っているのだ。 ミクロ経済学は企業や消費者の意思決定問題そのものを扱ってはいない。 その結果が全体の中でどう調整されていくのか。 そんな視点がミクロにあっていい。」 と言って貰った。 そうだ、 それこそ私がやろうとしていることだ。 私はそのとき、 自分の研究のスタンスをはっきりと自覚した。
経済学的なマクロの視点でもなければ、 経営学のような経営者の視点でもない。 企業の行動を外から観察し、 それを他の企業の活動との関連の中で分析する。 それがそのまま商学であるはずもないのだが、 視点としては商学的であり、 それであって初めて商学の一部を担っていると言えるのだと考えていた。 しかし、 商学全体を考えようなどという大それた考えはまだまったくなかった。
そんな私に 「商学」 を意識させる契機が二つあった。 一つは、 一九九九年に出版された林周二 『現代の商学』 (有斐閣) である。 同書の中で、 林は戦前の商学が商取引全般に射程を広げていたのに対して、 戦後の商学は商業論に矮小化してしまったことを指摘し、 改めて商学の必要性を説いた。
林の提唱する商学は、 商人の学であり、 実学としての商学であった。 私が誰かの脈をとっても医療行為にはならないが、 医師が患者の脈をとれば医療行為になる。 行為そのものではなく、 行為の主体が行為の意味を決める。 これはまったく斬新な考え方であった。
もうひとつは、 ほぼ時を同じくして出くわした大学設置審などでの位置づけだった。 私はそれまで、 文部科学省を含め、 商学の位置づけなど気にしたこともなかった。 三つの領域はそれぞれ独立しているが、 あえて関連を問うとすれば、 経済学に対して商学があり、 その内部に商学と経営学が位置づけられると考えていた。 しかし、 よく聞いてみると、 もはやその位置づけは逆転していた。 経済学に対して経営学があり、 商学はその経営学の一分野に閉じ込められていた。
なぜ、 いつからそうなったのか、 それはわからない。 しかし、 私はこれには相当大きなショックを受けた。 商学の意義がもはやほとんど理解されなくなったのではないか。 戦後生まれの経営学に対して、 戦前からの商学はただ古臭いというイメージしか残らないのだろうか。 そういえば、 商学部と言うから学生が集まらないのだ、 受験生を集めるためには経営学部の方がいいといった声さえ聞こえるようになっていた。
循環とリスクから取引のつながりを見る
何とか商学にもう一度、 光を当てることはできないか。 林の問題提起は斬新だった。 それに対抗することもないのだが、 取引そのものの中から商学を捉えることはできないか。 そんなことをぼんやりと考え始めた。 そして、 最初に思い浮かんだのが 「リスク」 の概念だった。 取引にはリスクが付きまとう。 このリスクをうまく処理しなければ取引そのものが広がらない。 商学とはこのリスクを社会的に処理する仕組みに関わっていたのではないか。
そう考えれば、 会社制度も金融や保険も、 商業や物流もすべてがこれに関連してくる。 一つ一つの領域は既に独自の研究領域として確立されている。 商学はこれらをばらばらの科目群としてではなく、 全体として有機的に関連したものとして捉えたはずであった。
そう考えるうちに、 循環という概念が浮かんできた。 始点から終点に向かう流通 (distribution) ではなく、 まさに経済全体が終わりなく動いていく循環 (circulation) である。 循環を作動させているのは取引であり、 リスクは循環を阻害するからこそ全体として処理されなければならないのだ。 そう考えることによって、 私はぼんやりとではあるが、 商学の広がりとその関連をイメージできた気がした。
有斐閣編集部の柴田守さんのご理解と強力な後押しを得、 神戸大学の忽那憲治教授にご協力をお願いして、 全体の編集に取り掛かった。 幸いにも、 お声がけさせて頂いた方々にはお忙しい中にもかかわらず、 すべてご快諾頂いた。 その執筆者とのやり取りの中で、 全体の構成やそれぞれの位置づけ、 そこでの強調点などは改訂されていった。 そのうえで、 ようやく 『商学への招待』 を上梓することができた。
「教科書は一人で書け。」 これは以前に林周二先生に忠告された言葉であった。 しかし、 商学の全域を一人で書くことは到底できず、 たくさんの執筆者のご協力を得た。 共同作業の常ではあるが、 どうしても難易度や論調にばらつきがつきまとう。 できるだけ調整はしたが、 全体を揃えることはできなかった。 読者には申し訳ないことだが、 これも執筆者の個性だとしてお許し願うよりない。
いやしかし、 これははたしてテキストとして使ってもらえるのだろうか。 全国に数ある大学の商学部で、 「商学とは何か」 を問う科目がどれだけ残されているのかもわからない。 それよりも、 果たしてこれを一人の教員が教えることができるのか。 全体の構成を考えながら、 私自身が何度も自問したことであった。 これを一人で担当しようとすれば、 相当な準備が必要なことは明らかである。 いや、 準備をしてでもやってやろうという奇特な人がいるのだろうか。
でも、 最後はこう考えることにした。 学生はこれを一人で聞き、 全体を理解しようとするのだ。 そうだとすれば、 私たち教員だって、 何とかやりようはあるのではないか。 各分野の詳細な内容はもちろんわからない。 でも、 そのごく入門的な考え方と、 それが他の分野とどう関係しているのかといった点を概説することはできるのではないか。 自分が実際に担当せよといわれると困るなあと思いながら、 そんな淡い期待を持った。
今から三年前、 『まちづくりを学ぶ』 というテキストをを西村幸夫先生と共に編集したことがある。 その時にも同じ問題に直面したが、 頑張って一人でこれをテキストとして講義したことを思い出していた。 その気にさえなれば決して不可能ではない。
いや、 一人が無理ならオムニバスでもいい。 商学部に入学してくれた学生に、 商学は雑多な科目の単なる寄せ集めではなく、 全体が関連し合っているのだということを伝えて欲しい。 そうする中で、 商学への関心が高まり、 商学に対するまた別の見方が現れたら素晴らしいことだと思う。
商学に対して一石を投じたつもりはある。 ゆっくりでもいい、 その波紋が広がっていくことを切に願っている。
石原 武政(いしはら たけまさ=大阪市立大学名誉教授)
« お知らせ:シンポジウム「これからの雇用政策と人事」を開催いたしました | トップページ | 著者より:『都市のリアル』 »
« お知らせ:シンポジウム「これからの雇用政策と人事」を開催いたしました | トップページ | 著者より:『都市のリアル』 »