著者より:『自殺のない社会へ』「書斎の窓」に掲載
澤田康幸・上田路子・松林哲也/著
『自殺のない社会へ――経済学・政治学からのエビデンスに基づくアプローチ』
2013年6月発行
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著者の澤田先生が本書の刊行にあたって『書斎の窓』(2013年11月号)にお寄せくださったエッセイを以下でもお読みいただけます
◇自殺のない社会へ――社会科学者が取り組む意義◇
この度、政治学者である上田路子氏・松林哲也氏と共に経済学者である私が「自殺のない社会へ――政治学・経済学からのエビデンスに基づくアプローチ」を上
梓しました。医学者や疫学者でない我々社会科学者が自殺対策の研究に取り組む意義について、我々が考えるところをご紹介したいと思います。
自殺を社会の問題としてとらえる
「自殺」は、現代日本における最も深刻な問題の一つであることは言うまでもありません。世界保健機関(WHO)によると、世界で毎日3000人もの人々が自殺を図り、およそ30秒に1件の自殺関連死がおこっているとされています。特に日本では1998年以降2011年まで自殺者数が年間3万人を超え、その14年間、毎日およそ90人もの人々が自ら命を絶っているという事態が続いてきました。警察庁の自殺統計によりますと、2012年に日本の自殺者数は15年ぶりに2万7766人となり、3万人を割り込みましたが、依然高い水準にあることには変わりがありません。また、日本の自殺率は国際的に見ても高く、最新のデータによると男性自殺率はOECD加盟国のなかで3番目、そして女性の自殺率は2番目に高くなっています。
しかし、自殺の問題の捉え方は様々で、対策もまだ緒に就いたばかりという面があります。「個人が問題を抱え、自ら命を絶つ」――従来、日本では、「自殺は個人の問題」とされてきました。特にうつ病が自殺の直接的な原因として挙げられていることがあります。私も自殺は個人的な問題であるという考えを長らく持ってきましたが、いくつかのきっかけで、自殺の直接的な原因が個人の問題だとしても、その背後に社会や経済の問題が潜んでいることを痛感し、社会科学の立場から自殺対策の研究を行うに至りました。
自殺の原因はうつ病であったとしても、多くの場合、個人の問題にとどまらず、個人を取り巻く経済状態や制度、あるいは人間関係によって強く影響を受けています。たとえば、失業、倒産、連帯保証人問題などによる経済的困窮は、多くの自殺の直接的あるいは間接的な原因となっているのです。したがって、自殺にかかわる一連の問題と有効な自殺対策のあり方は、人々が自殺に追い込まれていく社会経済環境についての慎重な実態把握なくして議論はできないと考えなければなりません。
金融危機・失業と自殺
一つのデータをお見せします。図1のように、時系列で見てみますと、日本の自殺者数は1997年から98年にかけてのいわゆる金融危機時に約24000人から32000人へと30%以上の急増を見せ、それ以来10年以上連続で年間自殺者数が3万人以上にのぼったことが分かります。
より詳細にデータを見てみますと、特に、1998年の3月に自殺者数が目立って増えていることがわかりますが、この時期は、決算期であることに加え、金融当局の金融機関に対する自己資本比率検査が強化されつつあった時期です。内部留保金を増加させなければならなかった多くの金融機関は、「貸し渋り」「貸し剥し」を行い、多くの中小零細企業の破綻の引き金となったと言われています。「貸し渋り」の実態を把握するために、日本銀行が四半期に一度公表している企業に対する統計調査、「全国企業短期経済観測調査」(いわゆる「短観」)のうち、「金融機関の貸出態度に関する短観」を見てみますと、確かに1998年第一四半期に急激に悪化しています。
また、図2に見られるように、自殺率と失業率の間にも強い相関関係があり、97年から98年にかけて両変数は共に上昇しています。「幸福度」の研究によれば、日本を含め多くの国において、失業が人々の幸福感を大きく低下させることが見出されています。もしそのことが絶望と自殺につながっているとすれば、こうした失業と自殺との関係は看過できるものではありません。
自殺対策における経済学の役割
自殺に関する学術研究も、主に精神医学や疫学・心理学などの分野において優れた研究成果が蓄積されてきました。このような状況のもとで、経済学者・政治学者である筆者らがあえて新たに自殺問題について研究をしてきたのは、従来の取組に加えて、図1や図2からもうかがい知れるような、その背後にある社会・経済・政治的な要因に目を向けた社会科学的な視点がより有効な手立ての検討に資するという「確信」を持ったからです。
筆者の専門分野である経済学的なロジックも重要であると考えています。一つの例として、東北大学の北川章臣教授からご教示いただいた、『今昔物語集』 に収められている「御読経の僧が平茸にあたる話」という説話があります。
僧が平茸にあたって亡くなってしまったところ、左大臣が同情して手厚く葬った。それを聞いた他の僧が一所懸命に平茸を食っている。「なぜそんな危ないことをするのか」と聞いてみると、「手厚く葬ってもらいたくて平茸にあたって死のうと思った」ということである。
何百年も前の書物に、自殺の経済的インセンティブ(動機づけ)に関わる記述が残っていることに驚かざるを得ません。この説話は、自殺を抑止する鍵が人々のインセンティブにあり、そうしたインセンティブのいわば歪みを取り除くための政策が重要であることを示唆しているといえます。実は、我々の研究では、融資における連帯保証人制度や生命保険契約など我々の身の回りにある契約にも、社会経済環境次第ではこうした自殺の経済インセンティブの問題が潜在していることが示されています。
また、著名人の自殺が社会全体の自殺率を上昇させるという傾向(ウェルテル効果)が日本でも発見されていますし、人身事故による公共交通の混乱からもわかるように、自殺は様々な負の外部性・社会的費用を伴うものです。既存研究ではこうした費用が社会全体としてかなりの金額に上っていることが分かっています。慎重に設計された効果的な自殺対策は、よりよい社会の実現にとって不可欠であるといえます。
自殺のない社会に向けて
社会経済環境と自殺の原因・動機に密接な関係があるのであれば、それは社会の構成員すべてが、程度の差こそあれ、潜在的な自殺のリスクを抱えることを意味しています。たとえば、失業や倒産は誰でも直面するかもしれない問題です。経済的困窮を原因とする自殺のリスクとまったく無関係の人はいないでしょう。つまり、自殺はうつ病などの精神疾患を抱えている人たちのみの問題ではなく、誰もが当事者として真剣に考慮すべき重要な社会問題であると考えるべきではないでしょうか。さらに、社会経済要因が自殺の背後にあるということは、政策介入によって人々を取り巻く社会経済環境を少しでも改善することが国民全体の自殺リスクを軽減することにつながりうるということでもあるといえます。
このような事態の解決に向けて、自殺を予防するためのさまざまな取組が日本政府のみならず地方自治体や民間団体によって、これまで行われてきました。2006年に自殺対策の基本理念をまとめた「自殺対策基本法」が制定され、それ以降、国を挙げた本格的な自殺対策が実施されてきました。効果的な自殺対策のためには、これまでも行われてきた心の問題を中心とする健康問題への取り組みに加え、そうした問題を生み出す社会や経済の要因にも踏み込んでいく必要があると思います。重要な点は、「個人の問題としての自殺」という見方を超えて、自殺とは「社会的あるいは経済的な背景やそのメカニズムの解明と、社会全体への介入を必要とする政策課題」であることを、徹底した実態把握によるエビデンス(科学的根拠)に基づいて論じていくことの必要性です。自殺に対する政策介入はなぜ必要なのか、どのような社会経済環境が自殺を引き起こすのか、そしてどのような介入が効果的なのかを、徹底して明らかにしなければなりません。
また、自殺問題は、それにかかわる研究者のみならず、自殺対策の現場や実務にかかわっておられる政府の政策担当者・地方自治体職員や民間団体職員の方々、またより広くこの問題解決にかかわっている、あるいはかかわろうとされている一般の方々が様々な角度から取り組むべき課題でもあるといえます。そして我々は、効果的な自殺対策の取り組みのためには、優れたエビデンスの蓄積が必要とされると考えています。とはいえ、エビデンスの蓄積はまだ緒に就いたばかりであり、自殺問題の氷山の一角に光を当てたばかりという感もあります。今後こうした方向をさらに推進・加速する必要があり、今回上梓した本書がそうした流れの一助になることを願ってやみません。
(さわだ・やすゆき = 東京大学大学院経済学研究科教授)
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