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2013年7月10日 (水)

著者より:『ジェンダー論をつかむ』「書斎の窓」に掲載

177161千田有紀・中西祐子・青山薫/著
『ジェンダー論をつかむ』

テキストブックス[つかむ]
2013年3月刊
→書籍情報はこちら

apple著者の千田先生が本書の刊行にあたって『書斎の窓』(2013年7・8月号)にお寄せくださったエッセイを,以下でもお読みいただけますsign01


◇ジェンダー論の新しい地平◇

 ガレノスの身体観
  なるほど異性ではあるけれど、
  女もだいたい男と同じ。
  よくよく調べた人なら知ってるように、
  女はちょうど男の裏返し。

 この不思議な歌は、 19世紀初めになっても歌われていたという猥歌である。

トマス・ラカーによれば、 これは2世紀にヨーロッパの医学の基礎を形作ったガレノスの身体観を示しているという。 ガレノスは、 男性と女性の生殖器官は 「構造的には同じ」 であると考えた。 女性は本質的には男性の一種で、 生命の熱が足りないために不完全であり、 生殖器が内側にとどまっていると考えたのである。 つまりヴァギナは内側に入ったペニスであり、 子宮は陰嚢、 卵巣は睾丸であるという。 この考え方は広く広まり、 その後18世紀に入るまでの身体観を支配した。
 そんな馬鹿なと思われるかもしれない。 しかし19世紀の初めには女性の代名詞にもなった卵巣は、 2000年ものあいだ、 固有の名称すらもたなかったという。 ガレノスは卵巣を指すのに、 男性の睾丸を意味するorcheisという単語を使用し、 文脈によって男女の別を示していた。
 またアンブロワーズ・パレやシャルル・モンテーニュには、 「マリーがジェルマンに変わった話」 がある。 マリーという少女が麦畑で豚を追って溝を飛び越えようとしたときに、 「まさにその刹那に睾丸と男根が体のなかで急激に発育し、 それを包むように抑えていた靭帯を破って突出してしま」 い、 男性に変わってしまったというのだ。 医者と司祭は、 女性が男性に変わったと決議し、 その後、 マリーはジェルマンという名前の男性として暮らしたという。 この例に対して、 ラカーは 「自己のジェンダーに不適切な振る舞いをすると、 本当にセックスも変わると恐れている」 と当時の人々が考えていたのではないかという解釈を与えている。 熱が異なるだけで、 男女が 「構造的には同じ」 身体をもっているとしたら、 ふとした拍子に性転換が起こったとしても不思議ではない。

 ワンセックス・モデルからツーセックス・モデルへ
 ラカーはこのガレノスに基づいた身体観に 「ワンセックス・モデル」 という名前を与えている。 女性も男性の身体も、 構造的には同じである、 つまり 「ワンセックス」 が存在するだけの世界。 18世紀の終わりまではこの身体観に基づいて、 ヨーロッパの人々は生きていた。
 たとえば妊娠は、 今では卵子と精子の結合である受精の結果であると考えられるが、 長くは体液が重要視されてきた。 つまり妊娠は、 男女ともが精液を出すことによって起こる。 女性もオルガスムスを得て子宮から射精し、 両性の精液がまじりあわなければ、 妊娠に至らないと考えられてきた。
 2012年の8月にアメリカ共和党の現職下院議員が、 「まっとうなレイプ」 の場合には、 女性の体が生物学的な反応を示すために、 妊娠することはほとんどないと発言して批判を浴びたが、 まさに 「前近代的な身体観」 とはこのようなものであった。 もちろん彼の発言は批判を浴びた。 「ツーセックス・モデル」 の現在には、 とても容認されるものではないだろう。
 ツーセックス・モデルの身体観は、 男と女の身体は正反対のものであるというものだ。 男性の身体は力強く、 女性の身体は柔らかい。 身体の隅々に至るまで、 男性と女性の身体は、 異なっていると考えられている。 そして妊娠に女性のオーガズムは必要ではなく、 むしろ女性には性欲はないと。 この身体観の詳細な説明は不要であろう。
 ワンセックス・モデルは、 現在のわたしたちから見るととても奇妙で、 「間違っている」 だけのようにみえる。 しかし問題はそう簡単ではない。 ラカーはトマス・クーンのパラダイムの理論を、 「彼の対象とした物理学よりも解剖学のほうにこそ、 規範的例証を見い出せると思う」 とさえいっている。 そう考えればわたしたちの今の身体観も、 また新たなパラダイムが作られさえすれば、 全く書き換えられる可能性をももっている。

 ジェンダーは社会的・文化的に作られるのか?
 70年代、 80年代のジェンダー論においては、 「セックスは生物学的な性差、 ジェンダーは社会的・文化的な性差」 と説明されてきた。 「ジェンダーは社会的・文化的に作られるのか?」 ということが焦点とされ、 それだからこそ、 セックス (性別) とは別のカテゴリーであるジェンダーという概念が導入されたのである。
 今からみればこの問いをめぐる白熱した議論は、 奇妙でさえある。 例えば、 セックスとジェンダーという概念を普及させる大きな役割を果たしたひとりとして、 ジョン・マネーがいる。 彼は、 包皮切除手術に失敗して性器を失った八ヶ月の男児の両親から相談を受け、 女児として育てるようにアドバイスした。 名前もブルースからブレンダという女性名に変更した。 男児はブレンダとして育てられた結果、 女の子としてのアイデンティティと振る舞いを獲得したとマネーは報告した。 この症例が大きく取りあげられるようになったのは、 彼が一卵性双生児だったからである。 同一の遺伝情報をもつ双子にそれぞれ異なった性を割り当てて育てたところ、 成功した。 となれば、 「氏より育ち」、 つまり、 「育て方が重要である」、 「ジェンダーは社会的に作られる」 という証拠となる。 ブレンダの症例は、 何度も何度も引用された。
 しかし実際はこの実験は成功していなかった。11歳をすぎたあたりからこのブレンダの肩幅は広がり、 筋肉がつきはじめ、 首回りや二頭筋も太くなる。 そもそも自分の性別をめぐって何か重大な秘密が隠されていると感じていた。 とうとうブレンダは自分の身体に起こった秘密を知って激昂し、 銃を買って包皮切除手術に失敗した医者を訪ねるに至る。 対面のあとにブレンダは銃を川に投げ捨て、 今度は男性として生きなおすことを決意した。
 マネーの症例が実際には失敗に終わっていることを書き綴ったドキュメンタリーは、 『ブレンダと呼ばれた少年――ジョンズ・ホプキンス病院で何が起きたのか』 にまとめあげられ、 出版された。 この本の原題は、 As Nature Made Him  自然が彼を作りたもうたように、 である。 著者のコラピントは、 今度はマネーとは逆に、 いくらジェンダーをかえようとも、 生まれもったセックスは代えられない、 「自然」 が決定するのだと、 主張した。 日本では新しい歴史教科書をつくる会がジェンダーフリー批判をおこなう際に、 このブレンダの症例を持ちだし、 マネーの 「双子の症例」 に依拠していた男女共同参画政策は抜本的な見直しをするべきであると主張している。
 このようなさまざまな騒動を引き起こした双子の症例であるが、 翻弄された双子は、 悲劇的なことに2人とも自殺を遂げた。 気の毒な限りである。 この本自体は、 新しい歴史教科書をつくる会とは関係なく、 とても興味深いものである。 例えばブレンダとして生きていたブルースが 「女の人は気の毒だと思うよ。 おれもいっときはその体験をしたからわかる。 『女の子なんだから、 台所に行ってなさい』、 『薪なんて割らなくていいの、 けがしたらどうするの』 なんて言われて。 おれがまだ子供のころ、 女の人たちは男女同権を求めて必死に闘ってたよ。 『いいぞ、 その調子』 だっておれは思った」 と女性たちの地位改善に深い共感と応援を送っている箇所をみれば、 ブレンダの悲劇を政治的に利用することの罪深さがうかがい知れるだろう。

 セックスとジェンダー
 さて、 双子の症例はなぜ、 そんなに重要だったのだろうか。 「ジェンダーが社会的・文化的に作られるのか」 という問題が、 なぜそれほどまでに執拗に問われたのだろうか。 ジェンダーが社会的に作られようが作られまいが、 そんなことはどうでもよいようにも思われる。
 しかしツーセックス・モデルが接見した近代社会においては、 わたしたちの思考の基盤は 「身体的差異」 となった。 男性と女性は身体的に異なっている。 遺伝子もDNAもホルモンも、 脳も違う。 であるから同一の処遇はできないのだと。 これは男女にとどまらない。 特定の人種は身体的に異なっている。 「未開人」 は異なっている。 貧しい階級の人は身体的に異なっている。 犯罪者は生まれつき身体的に異なっている。 などなど、 様々なマイノリティの 「身体」 には、 さまざまな 「差異」 が見いだされたのである。
 これらの 「差異」 は所与のものであった。 「身体」 を代えることはできない。 ジークムント・フロイトは 「解剖学は宿命だ」 といった。 ならばせめて 「社会的役割」 を代えよう。 そういう熱い思いが、 セックス (生物学的性別) とは別のジェンダー (社会的性別) という概念の用法をあみだしたのである。
 しかしラカーが明らかにしたように、 「身体」 さえも実は不変ではない。 2000年前の身体と現代人の身体が同一であるか異なっているのかはわからない。 がしかし、 わたしたちが身体を認知するためには、 ある種の思考の枠組み (パラダイム) に依拠しないわけにはいかず、 そういう意味では 「身体」 もまた確固たる存在ではない。 言語的に構築されるといってよい。 言語が社会の産物であるという意味で、 身体は 「社会的」 に作られるのである。 であるなら、 「セックス (生物学的性別) もまたジェンダー (社会的性別)」 であるといえる。 性差はそこにあるものではなく、 見いだされ、 つくりだされるものなのである。 そうかんがえれば、 ジェンダーとは独立して作られる 「セックス」 のほうが問われるべき問題なのだ。
 このようなポスト構造主義以降のジェンダー論は、 とても難解だといわれてきた。 『ジェンダー論をつかむ』 では、 ポスト構造主義を踏まえジェンダーを問い直した、 新しいテクストである。 わかりやすさを信条とし、 「です・ます」 調で執筆した。 またグローバリゼーションや新自由主義に着目しながら、 新しいジェンダー秩序を考察している。 ぜひご一読願いたい。

 千田有紀(せんだ ゆき)=武蔵大学社会学部教授

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