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2013年6月14日 (金)

著者より:『新しい時代の教育方法』「書斎の窓」に掲載

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田中耕治・鶴田清司・橋本美保・藤村宣之/著
『新しい時代の教育方法』


有斐閣アルマInterest
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pen著者の田中先生が本書の刊行にあたって『書斎の窓』(2013年6月号)にお寄せくださったエッセイを,以下でもお読みいただけますsign01

◆新しい教育方法の学をめざして◆
   ――『新しい時代の教育方法』の刊行に寄せて

 このたび、有斐閣からテキスト『新しい時代の教育方法』(以下、「本書」と略します)を刊行していただいた。ここでは、その編集の過程で考えていたことを3点にまとめて書いてみたいと思います。

(1)教育方法学者が書く「テキスト」ということ
 教育方法の学とは、簡単に申しますと、字義通りに「教える方法に関する学問」ということになります。最近では、大学でもFD(ファカルティ・デベロップメント)という言葉に代表されるように、大学での講義やゼミの方法やゼミの持ち方についての関心が高くなり、勢い、FDに関する講演会などに私たち教育方法学者が呼ばれる機会が多くなってきました。おそらく、講義やゼミの方法や持ち方に関する役立つヒントを教えてほしいということでしょう。
 そのように期待されている教育方法学者が集まって、それこそ教育方法学に関するテキストを編むとなると、いやが上にも、緊張と責任が伴いました。はたして、教育方法学者が書く「テキスト」とは、どうあるべきでしょうか。その場合に、2つの極論が予想されます。ひとつは、テキストを読むのは大学生であるのだから、執筆者は遠慮することなく、最新の高水準な学問内容を学術的に執筆すればよいのだ、大学生であれば、「読書百遍意自ら通ず」ぐらいの苦労を厭うべきではない。何もテキストを読む大学生の知的水準に妥協すべきではないという立場です。このような立場は、私たちの恩師世代が一様にもっておられたように思います。そうなると、テキストが理解できないのは学生である私たちの責任に属することになります。
 最近のFDブームは、この大時代的な立場は、あまりにも現代の大学生の現状と乖離しているとの反省から生まれてきたものでしょう。したがって、この後者の立場をやや極端に推し進めますと、今どきの大学生に読んでもらえるテキストにするのであれば、少々の学的水準の低さには目をつむり、歯ごたえを求めるのでなく、効率性や娯楽性を追求して、できるだけ消化しやすい工夫をテキストに満載すべきであるという立場に落ち着きます。この「歯ごたえを求めるのでなく、できるだけ消化しやすい工夫」を提供してほしいという、「過大な」期待が、私たち教育方法学者に集まっているように思えます。私は、前者の教育方法無用論と後者のいわば教育方法万能論の2つについて、どちらも教育方法学の真髄をついたものではないと考えています。本書の序章「今なぜ、教育方法の学なのか」において、私は、この2つの立場を意識して、次のように記しています。「教育方法の学は、その固有な意味において、人間形成のための文化を伝える『媒介の学』である。そして、その『媒介』を行う様々な仕掛けを構想し、実践するなかで、文化とそれを取り巻く子どもたちや教師たち、さらにはそれらを支える人々のあり方を問い直し、編み直していこうとする。『媒介の学』とは、その効率性や娯楽性のみを競う営みではない」(本書、4頁)。つまり、「媒介の学」としての教育方法学は、その伝えようとする文化が学生たちに習得されない場合には、習得の努力を怠った学生に全面的に責任ありと考えるのではなく、その文化や学問を学生たちに媒介する様々な工夫を通じて、まさしく伝えようとする文化がなぜ学生に習得されないのかをその文化のあり方(私たち研究者にとってその文化の探究のあり方)や現代に生きる学生たちの問題意識を含めて問い直そうとする営みであると考えます。そのために、本書では、例えば現代の教育方法論の様相を述べる場合には、それを体系的にではなく、「論争史」的にまとめることによって、教育方法学を探究する糸口を明確に示したり(第3章)、また、従来の教育方法学のテキストではあまり取り上げられない分野であり、昨今注目されている「いじめ、不登校」問題を解決するために求められている「教科外教育」の歴史と課題(第10章)、また、PISA問題や「全国学力テスト」や「大学入試問題」に揺れる「教育評価」問題(第9章)、それこそ本書の読者対象である未来の教師たちや若い教師たちの成長や発達に焦点を合わせた「教師論」(第11章)をそれぞれ章を立てて明確に位置付けて、構成しています。

(2)「新しい時代」ということ
 本書のタイトルは、『新しい時代の教育方法』です。この「新しい時代」という修飾語は、有斐閣のテキストシリーズに共通するものです。とは言え、そのような修飾語がつく限り、この「新しい時代」を意識せざるを得ません。それでは、本書は、「新しい時代」をどのように意識したのでしょうか。
 まずは、次の指摘をご覧ください。①「ゆとり」か「詰め込み」かの「二項対立」があったこと、②「子どもの自主性を尊重する余り、教師が指導を躊躇する状況」があったこと、③基礎的・基本的な知識・技能の習得やそれを活用する教科学習と探究活動を行う総合的な学習との「適切な役割分担と連携が必ずしも十分に図れていないこと」、④基礎的・基本的な知識・技能の習得や観察・実験やレポートの作成、論述といった知識・技能を活用する学習活動を行うためには、「現在の小・中学校の必修教科の授業時数は十分ではないということ」、⑤「家庭や地域の教育力が低下したことを踏まえた対応が十分ではなかったということ」。つまり、全体として、以上の指摘は、「ゆとり教育」政策では基礎的・基本的な知識・技能の習得やそれを活用する教科学習の軽視があったことを公的な文書において率直に認めたものです(2008年改訂学習指導要領に関する中央教育審議会答申「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善について」2008年1月17日所載)。管見の範囲では、公的文書において、現行の教育課程政策をこれほどに厳しく自己批判したことはかつてなかったように思います。歴史を振り返りますと、第二次世界大戦後の教育課程改革は、学力問題を中心として推移してきたといっても過言ではないでしょう。その中でも、次の2つの時期の学力問題は、教育課程行政を大きく転換させたという意味で重要な出来事でした。まず1950年代前後に当時の「新教育」の是非をめぐって争われた学力問題(「基礎学力論争」「問題解決学習論争」)とそこで実施された久保舜一調査(1951年)、日本教職員組合による調査(1953年)です。この結果、当時の文部省は経験主義的なカリキュラムから系統主義的なカリキュラムに大きく方向を転換することになりました。
 次の学力問題のエポックとして、1970年代中頃に「落ちこぼれ・落ちこぼし」問題を契機として展開された学力論争とそこで実施された国民教育研究所(1975年)と国立教育研究所(1975年)の調査です。この結果、当時の文部省は系統主義的なカリキュラムの典型とされた「学問中心カリキュラム」を修正して、いわゆる「ゆとり教育」政策を推進するようになりました。周知のように、1999年から始まった「学力低下論争」は、まさしくこの「ゆとり教育」政策を主要なターゲットにして争われ、文部科学省は「ゆとり教育」政策による「新しい学力」観から「確かな学力」観へと軸足を移し、学習指導要領の改訂(2008年3月)、指導要録の改訂(2010年3月)に踏みきりました。
 このように第二次世界大戦後の教育の歩みを学力問題と教育課程政策の関係を軸にして眺望すると、およそ25年(四半世紀)周期で教育課程行政が大きく転換していることが理解できるでしょう。すると本書の「新しい時代」とは、この「脱ゆとり教育」政策を意味するのでしょうか。
 しかし、本書においては、「脱ゆとり教育」政策が「新しい時代」を画するという立場をとりませんでした。先に25年(四半世紀)周期に転換する戦後の教育課程の歴史を概括したように、その歴史のあゆみは「子ども中心の教育」と「学問(または教科)中心の教育」との間をあたかも「振り子」が揺れるようであったとよく表現されるように、もし本書が「脱ゆとり教育」政策を「新しい時代」を画するとみなすのであれば、そのうえに構築される教育方法学は再び3度「振り子」の振動に共振するのみに終わるのではないかと考えました。まさしく本書がめざす「新しい時代」の教育方法は、「ゆとり教育」時代に切り拓かれた学問的な地平(たとえば学習の構成的契機に着目することや教師像として「反省的実践家」像の提案など)と「脱ゆとり教育」時代に強調されるようになった学問的な地平(学習の反映的契機に着目することや教師像として「技術的熟達者」像の着目など)をいかに弁証法的に再構築するのかの課題に挑戦するものとなっています。その意味で、本書は入門テキストではありますが、大学院でのゼミのテキストにも耐える、新しい教育方法の学をめざす学問的挑戦の書となったと執筆者一同自負しているところです。

(3)「テキストを編集する」ということ
 さて、以上の基本方針を立ててみて、どの研究者に執筆していただこうかと考えました。教育方法の学とは、「媒介の学」と申しましたが、そのテキストとなると、少なくとも教育史の立場、一般教授学の立場、教科教育学の立場、教育心理学の立場からの多角的で重層的なアプローチを必要とします。かねてより、その学問的業績に注目して、懇意にさせていただいている3人の研究者にご参集いただくことになりました。それも、持ちより原稿ではなく、10回に及ぶ編集会議を持って率直な意見交換を行いつつ、テキストとしての一貫性やそれこそ読者にもわかりやすい図や表や写真やコラムの検討を行いました。このような編集会議をもつことを大切にしていただいた有斐閣の本作りの姿勢に改めて感謝する次第です。本書がテキストのみならず多くの幅広い読者を得ることを期待します。

   *田中耕治(たなか・こうじ) = 京都大学大学院教育学研究科教授

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