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2013年4月 2日 (火)

著者より:『教養としての経済学』 を編集して

L16404一橋大学経済学部/編

『教養としての経済学――生き抜く力を培うために』


2013年2月刊
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pen著者の齋藤誠先生が本書の刊行にあたって『書斎の窓』(2013年3月号)にお寄せくださいましたエッセイを,以下に転載いたします。

◆『教養としての経済学』 を編集して◆
                              齊 藤   誠 

経済学ってどんな学問なのだろうか 本稿では、 『教養としての経済学』 の編集後記のようなものを綴ってみたい。

 「経済学ってどんな学問なのだろう」 という疑問は、 経済学部を進学先に考えている高校生、 経済学部に入学したての大学生、 そうした生徒や学生をお持ちの親御さんたちに広く抱かれているのかもしれない。 高校で進路指導をしている先生方も、 経済学につかみ所のなさを感じているのかもしれない。 何らかのきっかけで経済学に関心を抱いた社会人の方々も、 経済学の取っつきの悪さを感じているのかもしれない。

 一方、 私たちは、 毎日のようにテレビニュースや新聞紙上で 「経済」 に関する話題に接している。 円高問題、 消費税増税、 社会保障改革、 欧州金融危機、 若年者失業問題など、 すべて 「経済」 問題である。

 また、 こうした 「経済」 問題を解決すべく、 さまざまな経済政策が打ち出されている。 不景気を打開するために金融政策や財政政策が発動され、 経済成長を高めるためにさまざまな成長戦略が展開されてきた。

 経済学とは、 そうした 「経済」 を取り扱う学問だと言われても、 分かるようでいて、 分かりにくいのでないだろうか。 ましてや、教養としての経済学などと言われると、 いっそう分からなくなってしまうであろう。

 『教養としての経済学』 と題した本書は、 読者の方々に、 経済学に抱かれている得体の知れなさ、 取っつきの悪さというイメージを払拭してもらうために、 一橋大学経済学部の研究者が編んだ本である。 私たちは、 気軽に手にとってもらえる本、 読み物として楽しく読める本、 それでいて中身があって、 読み応えのある本、 読み終えた後に経済学に対する関心がいっそう高まるような本を目指してきた。

若い人に向けて経済学を語るとは

 私は 『教養としての経済学』 を編集してみようと何となく思ったころから、 「経済学の何らかの分野を専門とする研究者が、 経済学に対してまったく白地の若者に向かって、 経済学を語るということはどういうことなのだろうか」 と何度となく自問自答した。

 仮に、 自分がある仏教宗派のある教義上の問題を専らとする学僧だとして、 世俗の若者に向かって自らが考えてきたことを語る場合に、ある教義の内容を事細かに話しても、 空回りするだけであろう。 かといって、 学僧が四方山話をしたところで、 まったく様にならない。

 おそらくは、ある教義という微視的な内容に向かうベクトルとはまったく真逆に、 「仏教とは」、 いや、 「そもそも人間にとって宗教とは」 という巨視的な内容を、 自らが専門としている分野の研鑽にしっかりと基づいて語る必要が生じるのでないだろうか。

 自らの専門に基づきながらも、 自らの専門から離れつつ語ることは、 学僧ばかりでなく、 学徒にとっても決して容易なことではない。 一方で、 自分の専門との間合いをとりつつ、 若い人に向けて語ることは、 自分自身の研究を振り返るまたとない機会であるし、 何といっても、 大変に楽しい知的な作業になる予感があった!

 「このようなことをしてみようではないか」 と経済学部の周囲の同僚に話してみたら、 案外にも多くの同僚に賛同してもらった。 その結果、 私たちの学部を支えている中堅、 若手研究者のほとんどの方々に寄稿してもらえた。 インフォーマルだけど、 真剣に進められる身のこなしの良さが、 私たちの学部の良い面なのかもしれない。

豊かな国に生まれた幸せとしんどさ

 話題は若干転じてしまうが、 去年の夏、 ある高校に講演に行ったことを書かせてほしい。 その講演では、 『教養としての経済学』 の第1章で書いたようなことを話した。 すなわち、 豊かな国に生まれた若者には、 「幸せな面」 と 「しんどい面」 がある。 「幸せな面」 としては、 社会全体として見ると、 週に二日休んでも市民の暮らしが概ね立てられるほど、 日本経済の生産性が高い。 一方、 「しんどい面」 としては、 個人として見ると、 そうした生産性の高さに見合った能力が国際社会から求められることから、 三〇歳代半ばまでもがき苦しんで、 やっと人生のスタート台に立つことができる。

 そんな話をした上で 「日本経済や世界経済の動向は決して他人事ではなくて、 一人一人の営為の積み重ねで全体が成り立っていると考えてみれば、 みなさん一人一人が日本経済の主役といえる。 これからは、 そんな気持ちで社会に関わってほしい」 と締めくくった。

 そのあとの質疑応答の時間に、 ある女子生徒から 「社会に働きかけるために今何をするべきなのか」 という趣旨の質問を受け取った。 おそらくは、 当時、 毎週金曜日、 国会議事堂前で原発再稼働反対デモが大々的に繰り広げられていたことが、 彼女の質問の背景にあったのであろう。 その辺を推し量って 「何事も社会勉強、 デモに参加してみなさい」 とでもいえば、知識人として格好が良かったのかもしれない。

 しかし、 一七歳、 一八歳の若者が、 複雑な利害の絡まる社会問題に対してデモで意思を表明したところで、 社会など何も変わらないというのは火を見るより明らかである。 そんな格好良い発言は軽々しくできやしない。 結局、 私は、 「今、 やるべきことを一生懸命やる方が良い。 将来、 何らかの形で社会に貢献できる強固な土台を作るために、 今は、 体と頭を徹底的に鍛え、 精神力を養い、 人間関係の重要さを学ぶのが一番」 と答えた。

 私は、 社会に働きかける個々人の力を心底信じている。 しかし、 教育者としては、 一人一人の個人がよほど精進しなければ、 社会に貢献できる能力など養うことができない現実も踏まえる必要がある。 個人の能力が社会において開花するためには、 本書で展開しようとしてきた意味での教養が不可欠なのである。

大学の講義風の読み物を目指して

 私たち執筆者の間でわざわざ打ち合わせたわけではないが、 日頃の大学の講義で語っているコンテンツとスタイルを踏襲しながら、 高校生や大学新入生の若い人たちにできるだけ読んでもらえるようなエッセーを書くことを心がけてきたように思う。

 通常の大学講義では、 テレビでの有識者のコメントと異なって、 証拠や論拠を丁寧に述べることなしに、 (荒々しい言葉で) ある政策的な主張を学生に押し付けることはしない。 また、 講義をしている自分のことについて、 あるいは、 自らが所属する大学や学部のことについて自慢話をしたり、 逆に非難したりすることもまずはない。 いわんや、 「デモに参加しよう」 とアジテーションをすることもしない。

 大学の講義や演習では、 通常、 四ヶ月、 あるいは、 八ヶ月かけて、 議論を通じて学生の知的関心を刺激しつつ、 持続的に予習や復習を受講者に求めながら、 知的訓練の機会を提供していくという地道な活動が展開されている。 しかし、 そうした知的訓練を、 四年間、 時には、 五年間にわたって積み重ねてくると、 相当の質と量の教養が培われる。

 こうした大学講義の本来の姿は、 実のところ、 世の中に上手く伝わっていないように思う。 『教養としての経済学』 のエッセーのひとつひとつが、 大学の講義や演習における知的なプロセスを、 雰囲気だけでも、 読者に伝えることができれば、 本書の出版は、 ある程度の目的が達成できたと思う。

教養とは生き抜く力!

 本書のタイトルにある教養としての経済学の教養という言葉には、 静かで、 落ち着いた響きがある。 教養のある人と言えば、 書斎で分厚い英書を読み、 居間でクラッシック音楽を鑑賞するような知的たしなみのある人というのが古典的なイメージでないだろうか。 本書の企画を相談に伺ったシニアの先生からも、教養としての経済学とは、 タイトルがややおとなしすぎるのでないだろうかと言われた。

 しかし、 たとえ教養のある人であっても、 常に平穏な環境に居られるわけではない。 時には、 厳しい環境に直面するであろう。 そうした時に 「過酷な状況で生き抜いていく力」 を与えてくれるのも、 これまた教養である。

たとえば、
▼日本語がまったく通じない異国の環境に放り出された時に、 そこで生きていくのに必要な言語を操ることができる能力。
▼故ゆえあって牢に入れられた時に胸に潜ませた詩集を鑑賞して精神の均衡を保つことができる能力。
▼洪水で時計も計算機も水浸しになった時に、 手作業で時刻を知り、 計算を行う能力。
これらの能力も、 すべて教養と呼ぶのにふさわしい。

 豊かさが奪われそうな状態や、 幸福が実感できない状態こそは、 まさに、 個人にとって、 社会にとって、 「経済」 の過酷な状況と言えるであろう。 そうこう考えてくると、 経済学が、 平時に知的な喜びとともに、 有事に生き抜く力を与えてくれるとき、 はじめて経済学は人々の教養の一角を占めることができる。

 したがって、教養としての経済学は、 学ぶ側だけではなく、 教える側にも、 相当の覚悟が求められている。 未来の大人たちには、 腕利きの料理人が極上の素材を調理したものを召し上がってもらいたいと思う。 私たちは、 お子様ランチではなく、 フルコースのディナーを満喫してもらうために、 それぞれの文章を真剣に、 しかし、 楽しんで執筆し、 本書を編んできた。 若い人たちには、 本書を手にとって読書を楽しんでほしい。

齊藤 誠 (さいとう・まこと = 一橋大学大学院経済学研究科教授)

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