著者より:『リレーションシップ・マーケティング』「書斎の窓」に掲載
久保田進彦/著
『リレーションシップ・マーケティング』
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著者の久保田進彦先生が,本書の刊行にあたって『書斎の窓』(2013年1月号)にお寄せくださいましたエッセイを,以下に転載いたします。
◆絆づくりの幻想を斬る◆
久保田進彦
一宿の恩
それは、 強い台風が近づきつつある夕方のことだった。 ひさびさにクルマで外出し、 首都高速で自宅に戻ろうとしたときである。
六本木ヒルズが右手に見えてきたころ、 突然、 ピーッという鋭い警告音が車内に鳴り響いた。 真っ赤なランプとともに水温計は振り切れ、 計器版には見たこともない 「STOP」 の文字。 幼い娘は、 「こわいよー、 おとうさーん」 と叫んでいる。 楽しいはずの家族ドライブは、 一瞬にして暗澹たる空気につつまれてしまった。
リレーションシップ・マーケティングの誕生
ビジネスは当事者同士の関係から影響を受ける。 多くの方にとって、 これは常識であろう。 しかし意外なことに、 マーケティングでは、 売り手と買い手の関係を意識的に扱ってこなかった。 適切なターゲットに、 独創的で魅力的な製品を提供すれば、 売り上げは自然に伸びるという発想が支配的だったからである。
状況が変わり始めたのは、 一九八〇年代である。 経済のサービス化が進むにつれ、 サービス・マーケティングという新領域が誕生し、 リピーター (既存顧客) の重要性が指摘されることになった。 またそれとともに、 顧客満足 (CS) や顧客維持 (リテンション) が注目され、 さらにリレーションシップ (関係性) の重要性も認識されはじめた。
一九九〇年代になると、 数多くのリレーションシップ・マーケティング研究が発表された。 そして、 二〇〇〇年代に入ると、 「売り手と買い手が、 互いをパートナーと認め合うことで、 強い絆をつくりあげていく」 というコンセプトが、 現代マーケティングの基盤に組み込まれた。
絆づくりの幻想
リレーションシップ・マーケティングは 「売り手と買い手の結婚」 といわれる。 しかしその心地よい響きから、 「結婚」 というメタファーが独り歩きしてしまったのも事実である。 「これからのマーケティングに必要なことは、 顧客としっかりと手を結び、 幸せの階段をのぼることだ。」 そんな絆づくりの幻想が、 ビジネス書を中心に声高に叫ばれた。 しかし売り手と買い手の関係とは、 それほど甘いものだろうか。
絆づくりの幻想は、 リレーションシップ・マーケティングの実践でもみられるようだ。 たとえば、 「顧客との関係構築にはポイント制度が有効だ」 という指摘がある。 しかしポイントによる格づけで、 絆は生まれるのだろうか。
○○ (航空会社) からマイレッジ・サービス降格のお手紙が届きました。 今月末までは搭乗時に 「○○さま、 いつもご利用ありがとうございます」 と客室乗務員さんから個別挨拶があるのですが、 来月からは無視されるという階級社会の厳しさを体験することになります……
これは 「フェイスブック」 で見かけた書き込みである。 電子メールやポイント制度の有効性を否定するつもりはないが、 それだけで顧客との間に関係が構築できるというのは、 明らかに幻想であろう。
研究者の中には、 このような幻想に警告を発してきた者もいる。 ハーバード・ビジネス・スクールのスーザン・フルニエ准教授 (当時) らは、 一五年も前に 「リレーションシップ・マーケティングの誤解」 という論文を発表した。 彼女らは、 リレーションシップ・マーケティングの名のもとで行われる活動のほとんどが、 企業の独りよがりであり、 その傲慢さが、 顧客の怒りを生み出していると主張した。
顧客や取引先との関係に気を配ることは、 ビジネスの基本である。 当事者同士の関係が、 ビジネスの成果に大きな影響を与えるからだ。 しかしフルニエ氏も指摘するように、 リレーションシップ・マーケティングには誤解も多い。 いまこそ、 絆づくりの幻想を斬り、 真の顧客関係づくりについて、 冷静に論じることが求められている。
曖昧さと複雑さのなかで
とはいえ、 リレーションシップ・マーケティングについて論ずることは、 容易でない。 「先生は何をご研究ですか?」 という質問に、 「関係です」 と答えると、 大抵の方は不思議そうな顔をされ、 話題を変えようとする。 たしかに関係とは、 つかみどころのないものである。
関係という言葉は多義的である。 私たちは関係を、 類似性という意味と、 結合性という意味で使っている。 似ているものについても、 結びついているものについても 「関係がある」 という表現をするのだ。 関係に関する議論は、 スタートから曖昧さとの戦いになる。
売り手と買い手の間に、 なぜ関係が形成されるのかという問題にも、 頭を悩まされる。 関係が生み出されるメカニズムは、 複雑である。
関係形成に関する議論は、 経済学、 経営学、 社会学など、 マーケティングに隣接するさまざまな領域で行われてきた。 たとえば冒頭に記した、 私の事例は、 社会的交換理論によって説明できるであろう。 ディーラーから受けた気配りに、 車検の依頼で返報することで、 均衡性を保とうとするわけである。 また信頼できる間柄では、 事前の取り決めにとらわれず、 臨機応変な対処が期待できるため、 当事者らは互いに強く結びつくことになる。 このような関係の柔軟性は、 不完備契約や関係的契約といった概念を用いて説明できる。 さらに、 互いに相手のニーズを深く理解したり、 その相手との取引にだけ役立つ知識や設備を獲得することでも、 当事者らの結びつきは強くなる。 これら専用性の高い資源が生み出す関係は、 取引コストの経済学や資源ベースの戦略論などを援用することで説明可能となる。
関係形成についての研究は、 そのほかにも、 親密な関係の理論、 社会的カテゴリー理論など、 たくさんある。 リレーションシップ・マーケティングでは、 これら幅広い領域の議論を援用することで、 顧客との関係について説明が試みられてきた。
リレーションシップ・マーケティングの構図
このように説明すると、 リレーションシップ・マーケティングは、 関連領域の焼き直しのように思われるかもしれない。 しかし一歩退いて全体像を眺めると、 独自の論理体系を確立している。 それはちょうどiPhoneのようである。
かつてiPhoneが登場したとき、 多くのメディアやメーカーが 「技術的には、 大したことない」 と評した。 すでに確立された技術や、 汎用性の高い部品から成り立っていたからである。 しかしiPhoneの魅力は、 技術的革新性よりも、 汎用性の高い技術や部品を巧みに組み合わせることで、 独自性の高いコンセプトを実現していたことにあった。
リレーションシップ・マーケティングの構図は、 これとよく似ている。 そこでは、 各領域で発達した基盤的研究をうまく活用することで、 現実のビジネスから生まれたコンセプトを具現化していく姿が確認できる。
肌感覚を理論へ
少々、 堅苦しい話になってしまったが、 リレーションシップ・マーケティングには、 興味深い知見がたくさんある。 その中には、 これまで経験則にとどまっていたことが、 概念的検討や、 統計データを用いた検証によって、 明確化されたものも多い。 すなわち、 肌感覚の理論化である。
たとえば、 最近のマーケティングでは、 顧客参加型の新製品開発の重要性が指摘されている。 顧客の中には、 企業が思いもつかなかったアイディアが埋もれているからである。 しかし多忙な顧客にアンケートをしても、 思いのほか反応は鈍い。 顧客に積極的な参加を期待するには、 どうしたらよいのであろうか。
このような場合、 損得勘定に訴えるよりも、 感情的な結びつきをつくる方が有効なようである。 金銭的報酬をちらつかせるのではなく、 営業担当者や接客担当者との間にフレンドシップを形成することで、 顧客は直接自分の利益にならなくても、 サポーター的な行動をみせるようになる。 顧客の心に 「われわれ」 の意識が形成されることで、 売り手の抱える問題が、 他人事とは思えなくなり、 自然と手助けしたくなるためである。
今日、 SNS (ソーシャル・ネットワーク・サービス) の浸透によって、 顧客との関係形成はさらに重要視されつつある。 リレーションシップ・マーケティングの知見は、 今後、 さまざまな場面に応用されていくであろう。
刊行によせて
このたび出版された 『リレーションシップ・マーケティング――コミットメント・アプローチによる把握』 には、 顧客との関係形成に関する、 さまざまな知見が記されている。 研究書でありながら、 リレーションシップ・マーケティングの入門書としても役立つ内容となっているので、 ぜひご一読いただきたい。
また本書は、 学術書としては、 少々ユニークな装丁となっている。 この装丁はニューヨーク・アートディレクターズ・クラブ (ADC) で金賞を獲得した、 伊藤敬生氏によるものである。 ADCは一九二〇年に創立された、 世界で最も伝統と権威ある、 広告美術団体である。 ちなみに伊藤氏が第八七回パッケージ・デザイン部門で金賞を獲得したとき、 銀賞はiPhoneであった。 トップ・デザイナーによる装丁を、 お手にとってご覧いただければ幸いである。
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