著者より:『マーケティングをつかむ』 「書斎の窓」に掲載
黒岩 健一郎 (武蔵大学准教授)
水越 康介 (首都大学東京准教授)/著
『マーケティングをつかむ』
テキストブックス[つかむ]
2012年5月刊
→書籍情報はこちら
著者の黒岩健一郎 先生が,本書の刊行にあたって『書斎の窓』(2012年11月号)にお寄せくださいましたエッセイを,以下に転載いたします。
◆ケースメソッドでマーケティングを教える◆
-- 『マーケティングをつかむ』 刊行に寄せて
黒 岩 健 一 郎
ショートケースに反響 このほど、 首都大学東京の水越康介先生との共著で、 マーケティングのテキスト 『マーケティングをつかむ』 を刊行した。
このテキストの特徴は、 想定読者を大学生だけに絞ったことである。 多くのテキストは、 大学生向けとは言いつつも、 大学院生やビジネスマンも意識しているため、 大学生にはやや難しい。 そこで、 私のゼミの学生に語りかけるようなつもりで執筆した。 扱う内容は、 マーケティングの基礎的な概念や理論にとどめ、 大学の授業やゼミで利用することを想定して、 九〇分で講義や議論ができる分量で区切った。
もう一つの特徴は、 ケースメソッドでマーケティングを教えるための教材として、 ショートケースを掲載したことである。 五〇〇字から一〇〇〇字程度の短いものだが、 二五本も作成した。 また、 テキストとは別冊で、 ケースごとにティーチング・マニュアルも作成した。
献本した先生方からの反応は、 いまのところまずまずである。 「大学生目線で書かれていますね」 「マーケティングの必須概念や理論がコンパクトにまとまっていますね」 といった感想もあったが、 とりわけショートケースへの評価が高かった。 「是非、 ゼミで使ってみます」 「こういう短いケースが欲しかったんです」 といったうれしい声をもらった。
このような反応があるということは、 マーケティングを教える教員の多くが、 ケースメソッドによる教育の必要性もしくは重要性を感じているからだろう。 そこで本稿では、 ケースメソッドで教えることについて、 最近思うことを述べたい。
ケースメソッドでの学び 一〇年程前、 ビジネスマン向けのセミナーで、 受講者に 「ケースメソッドで学んだ経験がある方」 と尋ねると数名しか手を挙げなかった。 しかし、 最近では、 過半数の方が手を挙げる。 ケースメソッドはかなり普及してきた。 しかし、 授業の中身を詳しく聞いてみると、 ケースメソッドに似て非なるものを受講している場合も多い。 例えば、 企業の成功要因を講師が解説する授業をケースメソッドと誤解している人もいた。
もっと深刻なのは、 教える側も、 ケースメソッドについて十分理解していないことである。 ケースメソッドで教えているという教員の授業を聴講する機会がときどきあるが、 一見ケースメソッドのようで、 その実は講義であることも多い。
ケースメソッドについて、 おさらいしておこう。 ケースメソッドとは、 教授法の一つである。 研究方法であるケーススタディとは異なる。 受講者は、 経営の事例が書かれた教材を読み、 当事者の立場で考え、 クラス全体で議論することによって学ぶ。
我々がよく使っている教授法であるレクチャーメソッド (いわゆる講義) とは、 対照的だ。 レクチャーメソッドによる授業は、 教師から受講者への知識の伝授の場だが、 ケースメソッドによる授業は、 受講者の意思決定の訓練の場である。 登場人物の立場になって、 意思決定の疑似体験をする。 レクチャーメソッドでは、 受講者は与えられた知識を理解し記憶することに集中するが、 ケースメソッドでは、 経営課題について考え、 意思決定することに集中する。 レクチャーメソッドでは、 講師は知識の源泉であり、 常に言葉を発しているが、 ケースメソッドでは、 討議の司会者となり、 受講者が学ぶべき点に議論を導く。 ほとんどの時間、 言葉を発するのは受講者である。
受講者が獲得するものも異なる。 レクチャーメソッドでは、 「知識」 が得られるが、 ケースメソッドでは、 疑似体験を通して 「技能」 が身につく。 ここでいう 「技能」 の意味は、 自転車の運転を考えるとわかりやすい。 自転車に乗れない子供を乗れるようにするには、 自転車はなぜ二輪でバランスがとれるのかという知識を教えてもダメだ。 実際に自転車に乗せ、 後ろを手で押さえてやり、 勢いがついたら手を離して、 何度か倒れて怪我をして、 やっと乗れるようになる。 このように、 知識の役割は限定的だ。 知識に加えて何かが必要である。 それが、 「技能」 である。
ここでは、 「知識」 と 「技能」 という言葉を使ったが、 ケースメソッドに詳しい慶應義塾大学の高木晴夫教授は、 「専門知識」 と 「統合力/意思決定力/戦略力」 と整理している。 一橋大学の野中郁次郎名誉教授・ハーバード大学の竹内弘高教授の言葉を借りて、 「形式知」 と 「暗黙知」 と言い換えてもいいだろう。
このように、 能力を育むのに有効なケースメソッドだが、 上述のように、 偽ケースメソッドが横行していることを大変心配、 かつ迷惑に思っている。 例えば、 企業の成功要因を講師が解説する授業をケースメソッドと勘違いしている人が、 私のケースメソッドを受講して、 「先生から何も教えてもらえなかった」 といった不満を述べることがある。 ケースメソッドは非指示的に教えるものだが、 受講者は指示的に教えてもらえるものと思っている。 また、 偽ケースメソッドを受講した方が、 「ケースメソッドは勉強にならない」 と思ってしまう場合もあって、 とても悲しい。
そして、 最も憂慮しているのは、 ある理論や概念を解説され、 それを使って事例で設定された問題を解く演習形式を、 ケースメソッドと思い込むことである。 「○○という理論があります。 では、 この理論を使うと、 ケースのAさんはどうするべきでしょうか。 ……はい、 正解は○○です」、 このパターンである。 唯一の正解があり、 それを求めるという点が危ない。 このような学び方を繰り返すと、 実務の場面でも、 理論を単純に当てはめるようになる。 理論墨守の頭の固い人材を大量生産してしまうわけだ。 大げさに聞こえるかもしれないが、 この手の偽ケースメソッドが広がると、 日本企業の競争力を削ぐ結果になりかねない。
当事者意識を持たせる ケースメソッドでの教育効果を十分引き出すために最も重要だと思うのは、 受講者に当事者意識を持たせることである。 「技能」 を獲得してもらうには、 実際に体験させるのが一番良いが、 体験ができないとなれば、 次善の策は疑似体験である。 ケース教材で設定されている時へタイムトリップし、 その状況に身を置き、 登場人物の立場で悩んでもらうのがよい。
当事者意識を持っていれば、 さまざまなことが気になるようになるし、 より具体的に、 より厳密に考えるようになる。 例えば、 車で旅行に行くときに、 自分が他者を連れて行く場合と、 ついていく場合では、 事前の準備が全く異なるだろう。 連れて行く立場であれば、 経路やトイレの場所、 駐車場の位置、 天気など、 いろいろ調べてシミュレーションするだろうが、 ついていく立場であれば、 そこまではしないだろう。
ときどきケース討議中に 「A案もB案もリスクが大きいので、 一から考え直した方がいい」 などと、 まるで他人事のような発言をする受講者がいるが、 こういう人は、 ほとんど何も学べていない。 その証拠に 「それで、 あなただったらどうするの?」 と聞くと、 ギクッとして黙る。
流通科学大学の石井淳蔵教授は、 当事者意識を持たすことを、 「対象に棲み込む」 状況と表現している。 ケースの登場人物が体験したことを受講者が追体験することによって、 共感的理解が可能になるという。 ともあれ、 このような状況を講師がつくることができれば、 受講者の技能を磨くことができる。
講師に求められるもの 『マーケティングをつかむ』 のショートケースを利用して、 ケースメソッドによる授業を実施するにあたり、 いくつかお願いしたいことがある (自分への戒めでもある)。
第一に、 ケースメソッドでの学びの理解である。 上述のように、 ケースメソッドに似て非なるものがたくさんある。 講師がケースメソッドについて正しく理解していないと、 受講者も本来の学びができない。 ケースメソッドで教えたことがあるという方も、 是非、 自らの教え方を再点検してもらいたい。
第二に、 ケースメソッドで教える技能の習得である。 特に、 受講者に当事者意識を持たせられるようにしてほしい。 ケースメソッドは、 ある意味 「ままごと」 のようなものである。 大人に白けずに 「ままごと」 をさせるには、 それなりの技能が必要になる。
経営の技能を獲得するにはケースメソッドが効果的であるように、 講師の教育技能を獲得するにもケースメソッドが効果的だろう。 しかし、 ケースメソッドで教育技能を学ぶ機会は少ないので、 実際に経験から学ぶしかない。 場数を踏んでもらいたい。
第三は、 深い知識である。 ケースメソッドでは、 知識を伝授するわけではないので、 知識が求められるというのは、 不思議に思うかもしれない。 しかし、 議論を促進し、 受講者に深い思考をさせるには、 理論そのものを知っているだけでなく、 その理論の限界や理論が生まれた背景などを知っていなければ、 議論を深めるための質問ができない。
また、 知識の広さも求められる。 受講者は、 設定した問題を、 こちらが想定した枠組みで考えてくれるとは限らない。 マーケティングのケースでも、 組織の観点から、 受講者が発言する場合も多い。 その発言についていけるだけの幅広い分野の知識を持っておかなければならない。
今後の展開 このように、 ケースメソッドは、 講師に求めるものが多い。 『マーケティングをつかむ』 は、 なるべく講師の負担を軽くするために貢献できればと思っている。 われわれにできることは、 まず、 教員の技能に依存せず、 ケースで設定した構造で活発な議論が沸き起こるようなケース教材にすることである。 今回、 テキストに掲載したケース教材は、 一度か二度は、 実際に使ってみて修正を加えている。 しかし、 まだ十分ではない。 今後、 何度も使用し、 また使用した方々の感想を聞いていき、 誰が教えても受講者が深い学びをできるような教材に進化させていきたい。 またティーチング・マニュアルも、 それに対応して改訂していきたいと考えている。
また、 今回、 二五本のケース教材を作成してみて感じたのは、 マーケティングの本質的な問題を取り上げたケースの品揃えをもっと増やす必要があることである。 マーケティングに関する実務上の問題は、 無数にあると言えばそうだが、 マーケターが頻繁に出くわす問題は、 限られているように思う。 そのようなマーケティング問題を整理して、 その問題を深く議論できるショートケースを今後開発していきたい。
(黒岩健一郎 :くろいわ・けんいちろう =
武蔵大学経済学部准教授)
« 著者より:『社会経済史学の課題と展望』 「書斎の窓」に掲載 | トップページ | 書評:『「危機の年」の冷戦と同盟』 「読売新聞」に掲載 »
« 著者より:『社会経済史学の課題と展望』 「書斎の窓」に掲載 | トップページ | 書評:『「危機の年」の冷戦と同盟』 「読売新聞」に掲載 »