著者より:『経営理念の浸透』 「書斎の窓」に掲載
高尾義明・王英燕/著
『経営理念の浸透
――アイデンティティ・プロセスからの実証分析』
2012年4月刊
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著者の高尾先生・王先生が,本書の刊行にあたって『書斎の窓』(2012年9月号)にお寄せくださいましたエッセイを,以下に転載いたします。
◇経営理念浸透研究の活性化に向けて
――『経営理念の浸透――アイデンティティ・プロセスからの実証分析』を刊行して◇
経営学の対象としての経営理念
経営学の研究領域は近年ますます拡大しています。しかし,そうした拡大ゆえに,重要であるとは思われながらも,研究対象としてあまり取り上げられないテーマがいくつもあるように思います。そうしたものの1つが,本書で取り上げた経営理念です。
経営理念が研究の対象から漏れがちだったことには,経営理念が経営実践の現場で使われ始めた概念であることが関係していると思います。研究者が生み出した構成概念は,概念規定について研究者間で論争があったとしても,その用いられ方はある程度の範囲で収束します。それに対して,経営の現場で使われることばは,さまざまな思いや意味が付与されて用いられます。そうした多義性を有することばの典型ともいえる経営理念を鍵概念として用いることができるように概念規定することは,研究者にとってはちょっと面倒なことといえます。
当然ですが,経営理念には価値的な要素が多分に含まれており,実証的な研究になじみにくい側面もあります。それに加えて,偉大な経営者が遺し,今も伝承されている膨大な経営理念の存在も研究のハードルをいっそう上げているようにも思われます。
とはいえ,経営理念に関する先行研究がなかったわけではありません。しかし,一部の研究を除けば思弁的・規範論的な傾向が強く,実践の場で用いられ,さまざまな経営現象に影響を与えている経営理念の実証的な解明とは少し距離がありました。
経営理念の制度化
このように研究者にとって扱いがたい経営理念を,われわれが取り上げようとした直接的なきっかけは,京都大学経営管理大学院に経営哲学の教育・研究を目的とした寄附講座が2007年に開設されたことでした。日置弘一郎教授が責任者となって同寄附講座が発足後,われわれがメンバーとなり「ミッション志向企業における理念浸透の調査」が研究プロジェクトとして立ち上げられ(プロジェクトリーダー:髙巌同寄附講座客員教授/麗澤大学経済学部教授),理念浸透の実態を把握するための調査の準備を進めつつ,経営理念をめぐる現状の把握を行いました。
そこで明らかになったことは,経営理念を掲げる企業が非常に多くなっていることです。2008年9月時点で,東証一部上場企業のなかで経営理念をホームページで掲げている企業は約75%でした(高尾義明「経営理念の組織論的再検討」京都大学京セラ経営哲学寄附講座『経営哲学を展開する』文眞堂,2009年)。過去との正確な比較は難しいのですが,経営理念を掲げる企業は近年になってかなり増えてきたといってよいでしょう。
こうした経営理念制定の増加と関連しますが,企業内での経営理念の対象や位置づけが変化してきたこともうかがえました。かつて経営理念の対象は経営者であり,経営者自身やその後継者の行動を拘束する自戒のための思想や信条と理解されていました。しかし,多くの企業で経営理念の文言が公開されていることや,その文言の更新傾向などを踏まえると,経営理念の位置づけが企業組織全体の指導原理へと変化し,その対象も経営者のみならず従業員全般に拡大してきたと考えられます。実際,教育・研修をはじめとしたさまざまな施策が多くの企業で取られているように,理念浸透のために企業が経営資源を投入する傾向が強まっています。
こうした変化の背景として,企業不祥事の露見の増加とともに,それに伴って企業の社会的責任を追及する声が高まってきたことがあると思われます。そうした中で「優れた企業には,公式的に定められた経営理念が当然のごとく存在し,それを掲げた経営がなされているべきである」という経営理念の制度化が進行してきたと考えられます。
理念浸透へのアイデンティティからのアプローチ
このように経営理念の浸透が重要視されるようになった現状から,個々の従業員に焦点を当てて理念の浸透の実状を調査する意義が大きいことが確認できました。そこで,調査設計の参考にするために改めて先行研究にあたりましたが,全般的に多いとはいえない経営理念に関する研究の中でもとりわけ従業員への浸透に関する研究は少ないこと,さらに従業員への理念浸透を把握する理論枠組みが確立されていないことが研究を難しくしていることなどがわかってきました。
これまでに経営理念の浸透に注目してきた論者の多くは,『エクセレント・カンパニー』に代表される初期の組織文化論に強い影響を受けてきました。しかし,そうした「強い文化」論のようなマクロレベルの議論では個々の従業員のことは捨象される傾向にあり,ミクロレベルでの調査の文脈では直接的には参考になりません。経営理念の浸透と組織文化との間にはもちろん関連性がありますが,いったん組織文化から離れて理念の浸透を把握する枠組みを構想していくことにしました。
もっとも,従業員への浸透というミクロレベルの理念浸透に焦点を当てるとしても,個々の従業員への浸透と会社全体での浸透とは無関係ではありません。したがって,会社全体としてのマクロレベルの理念浸透にも通じるような枠組みを準備することが望ましいといえます。こうしたミクロ マクロのリンクは社会科学の永遠の課題の1つといえるものですが,われわれは,欧米で近年盛んに研究されるようになった組織コンテクストのアイデンティティ理論を適用することによって,両者を架橋できるのではないかと考えました。
アイデンティティとは「私(たち)とは何者なのか?」という問いに対する答えにあたるものですが,経営理念は企業体としてのアイデンティティにあたるものと捉えることができます。より正確にいえば,企業のあるべき姿として意図的に提示された組織アイデンティティの一部です。そうした意図をもって制定された経営理念が形骸化せず企業体としての「真」のアイデンティティとなるには従業員への浸透が不可欠です。それについても,個々の従業員のアイデンティティに経営理念が取り込まれることをミクロレベルでの浸透と捉えることによって,アイデンティティという観点から統一的に扱えるとわれわれは考えました。
本文の経営理念の実例の1つとしてあげた花王ウェイでは,基本的な価値観として,「絶えざる革新」や「正道を歩む」といった項目が挙げられています。そうした価値観が従業員個人のアイデンティティの一部となることが,理念の浸透にあたると捉えます。理論基盤として採用した組織コンテクストのアイデンティティ理論では,状況に応じて顕在化するアイデンティティが変化することが仮定されていることや,組織への所属感が揺らいでいる昨今の状況を踏まえると,ここでいう浸透は,「強い文化」論への批判として挙げられるようないわゆる洗脳とは大きく異なっていると思われます。
今後の理念浸透研究の活性化に向けて
以上のような浸透を捉える枠組みに基づいて個々の従業員における理念浸透を測定する尺度を定め,業種・規模の異なる5社で実施した大規模な質問紙調査の分析を行いました。理念浸透の複雑性・ダイナミズムの解明を目指したさまざまな分析の中で,出版後の反響で特に言及されたのは浸透における他者の影響力についての分析でした。
組織文化論に基づいたこれまでの研究や実務的な著作では,理念の浸透における経営者の役割の重要性が非常に強調されてきました。もちろん,理念の浸透には経営者のコミットメントが不可欠であるものの,本書の分析で浮き彫りになったのは,上司の影響力の大きさでした。上司が理念を大切にしているかどうかとその部下の理念浸透との間には顕著な関係が見いだされたのに対して,経営者の理念浸透との関係については企業ごとに影響の幅にばらつきがあるなど,そこまでは安定した関係が見られませんでした。この結果一つ取っても,理念浸透が一筋縄ではいかないことが容易に想像されます。
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以上のような個別の分析にも興味深い結果が含まれていましたが,本書のもっとも重要な意義は,今後の実証研究の基礎となりうるような,経営理念の浸透をトータルに捉える理論的枠組みを示したことにあるとわれわれは思っています。経営理念が制度化され,経営理念の浸透がこれからも重要視されることが予想されるなか,本書が理念浸透をめぐる研究が活性化していくきっかけの1つになれば望外の喜びです。われわれ自身も,経営理念浸透のいっそうの解明に向けて研究を続けていきたいと思っています。
=高尾義明(たかお・よしあき,首都大学東京大学院社会科学研究科教授)
=王英燕(おう・えいえん,広島市立大学国際学部准教授)
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