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2011年10月14日 (金)

著者より:『日本政治史』 「書斎の窓」誌上対談①

049932北岡伸一/著
『日本政治史――外交と権力』

2011年4月刊
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著者の北岡伸一先生が,本書の刊行を機に,劇作家・評論家の山崎正和先生と『書斎の窓』(2011年9月号)誌上で対談された記録を,以下に転載いたします。

◆山崎正和&北岡伸一 対談:『日本政治史 外交と権力』を語る

◇北岡伸一(きたおか・しんいち)
1948年生まれ。東京大学法学部卒。現在,東京大学大学院法学政治学研究科教授。2004~2006年,国連代表部次席大使。著書に『日本陸軍と大陸政策 1906-1918年』『清沢洌』『自民党』など。

◇山崎正和(やまざき・まさかず)
1934年生まれ。京都大学文学部卒。劇作家・評論家。大阪大学名誉教授。現在,LCA大学院大学学長。戯曲に『世阿弥』『オイディプス昇天』,評論に『鴎外 闘う家長』『柔らかい個人主義』など。

1 前史

山崎正和 北岡さんはたいへんご健筆で,先日は『グローバルプレイヤーとしての日本』(NTT出版,2010年12月)という大変おもしろい本を読ませていただきました。またこのたびは,かつて放送大学教材として刊行された同名の著作を原型に著されたという『日本政治史』を拝見いたしました。これは近代日本政治史ですが,大いに同感するところが半分,教えられるところが半分でした。この本の内容に即しながら,周辺を含めていろいろご意見をお聞かせいただきたいと,本日はここにまいりました。

本書は,前史になっている日本史といいますか日本政治そのもの,もう少し言えば日本社会の特質から説き起こされ,そして近代に入ります。そのあたりも私は大いに同感すると同時に,感心しました。考えてみればだれでも気がつくはずのことだけれども,意外に気づかれていないところが,たとえば10頁の「崩壊の容易さと統一の容易さ」の項に出てきます。日本という社会,江戸時代の日本の政治構造が,ある意味で半分は家産制度,半分は封建制度という複雑な構造を持っていたために,崩壊も簡単であったが再統一も簡単であった,と。このあたりの論理にはたいへん感心しました。

私自身は,日本史についてはどちらかといえば文化史といいますか,社会史から勉強してきたものですから,若干補足的に言いますと,そもそも日本の思想,イデオロギーになっているさまざまな要素の中で,私は儒教が中国とはかなり異なると見ています。江戸時代以降を論じる方は,よく日本の朱子学の受容,併せて陽明学の受容を強調されるのですが,実はそれ以前の織豊期に,日本の儒教は商業を援護する形に変わっています。安土桃山・江戸前期の儒者に藤原惺窩(せいか)というたいへんな碩学がいて,これが当時の豪商・海外貿易家である角倉了以,角倉素庵という親子の親友でした。この3人でかなりいろいろと学問をしています。

日本の商人の大きな特色は,彼らは単に商売をするだけではなく,学問をし,広義の技術(テクノロジー)にも長けていることです。同時に金融の技術も発達させていました。一つ話題として言えば,「為替」というのは日本語です。漢字は後で当てたもので,もともとは「交す」という動詞から来た日本語なのです。おもしろいのは,了以と惺窩が組んで,安南(現在のヴェトナム中部)の王様と手紙のやり取りをしています。そこでは,貿易をしようというのが日本側の立場なのです。

日本では当時から商人が国際貿易に熱心でしたが,安南の王様は正統的な儒教の信者で,商売などは下賤なことであり,そういうことをするから国際問題が起こるのだと,貿易を断ってきました。それに対して惺窩らが主張したのは,儒教の中には「信」という言葉がある,ということでした。「信」は,儒教の本来の教えではいくつかの徳目の中で下の方なのですが,惺窩らはそれを一番上に持ってきました。互いに「信」さえ共有していれば,何事も起こるはずはない。商売をすれば,互いの国民を富ませることができて,それは「仁」にもつながるではないか,という論法なのです。

このように「信」を拡大解釈したのが日本の儒教の特色で,少し後には鈴木正三という学者が「信」と「忠」を比較して――もちろん武士道は「忠」です――,「忠」より「信」の方が上だと公然と書いています。その論理がおもしろいのです。「忠」といってもそれは取引であり,主人が何かをくれるから,そのお返しに「忠」を尽くすのだ。その点「信」というのは本来無償の行為であり,「信」を伴ってこそ「忠」も意味を持つのだから,「信」の方が上だ,と言うのです。

こういう考え方が,江戸時代を通じて一貫してありました。同時に,商業ないしそれにまつわる小型のマニュファクチュア(工場制手工業)がかなり盛んであって,それが日本の近代化を早めるもう一つの要素だったのではないでしょうか。

北岡伸一 私も,室町時代以来を扱われた山崎さんのご本は割合読んでいまして,たいへん影響を受けています。本書は幕末以後を扱ったものですが,もちろん江戸時代についても,またそれ以前についても勉強しました。

日本における儒教の影響力は,限定的かつ変わった形であったと思います。なんといっても儒教では「孝」が最初に来て,それから「忠」です。つまり,特定の人間関係が重視されるということなのです。しかし,おっしゃるとおり日本では「信」が重要で,「信」はすべての人に開かれています。その意味で日本は古くから貿易国家としての素地を持っていたと思います。

本書では鎖国についてもふれていますが,鎖国をどうとらえるか。国際的孤立状態というイメージの鎖国には違和感があるにしても,日本には制度としての鎖国はなかったという最近のリビジョニズム(修正主義)にも私は違和感があるのです。

山崎 それも極端論ですね。

北岡 貿易を通じて成熟した国内市場が発展したけれども,これが国外に発展する可能性は充分あったと思います。

山崎 北岡さんの,ペリーの来航(1853年)は日本国内の沿岸貿易に対する脅威であったという見方は,たいへん鋭いと思います。

そこでうかがいたいのですが,日本は近代化を行うにあたって,ほとんど外資の世話にはなっていないのですか。

北岡 そうです。

山崎 そこがかねてから私には不思議で,他のアジア諸国やヨーロッパに近い世界では,まずほとんど外資が入ってきて工業を起こし,商売は西洋人が行います。

日本の場合,たとえば絹が非常に潤沢に生産されていて,それが初期の輸出品としてたいへん重要でした。日清戦争の戦費は絹によって賄われたなどとよく聞きますが,それほどでないにせよ相当に資本がありました。もちろん金禄公債が出て,明治になって旧武士が受け取ったお金を銀行に預けるという知恵者がいたようですが,それ以外にも日本には資本があったのでしょうか。

北岡 外債積極論者もいることはいました。幕末にはフランスとの提携論があり,フランスからもっとお金を借りて薩長と戦う,という議論もあったのです。これは,いくつかの理由で却下され,基本的に徹底抗戦しないということになりました。しかし,その時には鉱山採掘権や生糸貿易の独占など,相当の担保を要求されています。

心理的に非常に大きかったのは,当時,日本からヨーロッパへ行くには途中で中国,インド,エジプトに立ち寄ったということです。そこで,そうしたかつての文明国が,外国から借金をしたばかりに,それをきっかけに外国の支配下に入ったという印象を,当時のエリートたちは強く刻み込んでいるのです。それが,外資導入消極論になった大きな理由ではないかと思います。

山崎 それを見た人たちは,幕臣ですか。

北岡 幕臣も,明治になってからの人たちもそうです。1879(明治12)年にグラント米前大統領が来日した時も,外国借款の危険性を力説しています。

山崎 グラントがですか。

北岡 はい。当時,アメリカは債務国でしたから。外資導入論者は大隈重信であり,福澤諭吉も積極的でした。鉄道の敷設は外資を導入して行いましたが,日本は基本的に外資導入をしないで日露戦争までがんばったのです。それは,たいへん皮肉なことですが,リーダーが武士であり,武士は借款に対してやや消極的であったなど,いろいろな面があると思います。

山崎 しかし国内では,武士は商人からさんざんお金を借りて,いわゆる大名貸しを行っていたわけです。

北岡 まさか,西洋の借款を踏み倒すわけにはいきませんから(笑)。ただ,同じ時期に統一・近代化を始めたイタリアは外資導入に積極的で,経済は圧倒的にフランスなどの支配下に入ってしまいます。

なぜ日本が外資導入に消極的であったかといいますと,決定的にはわからない面がありますが,いくつかの理由があります。一つには,他方で秩禄処分を行うなど大胆なことができた。これができなければ,もう外国からお金を借りるしかありません。

山崎 そうですね。

北岡 とにかく秩禄処分そして地租改正を行った。これについては,薩長の中枢が一致したことが大きいと思います。

山崎 そうですよね。たしか渋沢栄一は,絹の価格が低下したのを見て,蚕を燃やして生産量を抑制しています。そういう国際貿易の原始的な取引に長けていたのです。

北岡 商売の論理では,借金を踏み倒してはいけません。江戸時代のしくみは,そうしたビジネス通商の論理と武士の論理の両方が奇妙に組み合わさっているのがポイントで,幕藩体制の最大の欠陥は,商業に対して課税するシステムをつくれなかったということです。

山崎 そうですね。

北岡 低下の一途をたどる農業収入への課税に依存し続け,他は借金して踏み倒すというのでは,財政はもちません。

山崎 そうですね,それはおもしろいことです。指摘いただくまで気がつきませんでしたが,商業に対する課税はなぜできなかったのでしょうか。江戸時代,商人に対しては家の間口で課税しました。ですから,ご存じのように京都では間口の狭い,奥に深い家を造って税を逃れたわけです。

北岡 実は私の母親の実家もそうで,ずうっと奥まであります。

山崎 お宅もそうなのですか。

北岡 そうです。

山崎 それは,考えてみればおもしろいことですね。

北岡 ただ,課税するということは,実は尊敬するということなのです。

山崎 そうです,そうです。

北岡 ですから,西欧では課税するとそこからブルジョワジー(有産市民層)が勃興し,第三身分(etat)になります。

山崎 それはそうです。

北岡 その根っこには,富の蓄積に対する蔑視があったのではないでしょうか。そうでない人も,儒者を含め多数いましたが,根本的な変化はなかったのでしょうね。

山崎 なるほど。私などは,江戸時代の商人は一貫して誇りも高いし,道徳心もあるし,文化的教養も同時代の西洋人よりははるかに高いと思うんですが。

北岡 もちろんそうです。

山崎 そういう武士に対する商人の意気地に着目していたのですが,考えてみれは租税負担はしていなかったのですね。

北岡 それは,かつての堺や博多の商人の方が自立していて,西欧と立派に対抗できる人たちがいました。

たとえば,日本が開国したころドイツはまだ統一していませんから,日本と条約を結んだのはドイツではなくプロイセンなのです。プロイセンがドイツ諸邦を代表しており,その中にはハノーヴァーのような都市国家も含まれていました。ドイツには,田中明彦さんの『新しい「中世」』(日本経済新聞社,1996年〈日経ビジネス人文庫,2003年〉)での議論ではありませんが,そのころまでは都市国家もあるし領域国家もあったわけです。

ですから明治初期については,私たちはつい英仏だけを考えますが,英仏以外のいろいろな国とも関係があったことを念頭に置く必要があります。

山崎 そういうわけで,特に日本の政権構造がこういう不思議な形を持っていたことが,明治をスムーズに成立させたというところは,たいへん教えられました。

北岡 その中で渋沢栄一は,商人ではなく,広い意味では農民(豪農)です。ただ彼は,自分は孔子の徒であると自認しており,広い意味の儒教は受容しましたが,その儒教は中国のものとはたいへんに違っていたということです。

山崎 違っていたでしょうね。

北岡 何よりも,「忠」と「孝」の関係が全く違うのです。江戸時代は儒教が非常に強い力を持った時代だ,と丸山眞男さんは言っていますが,そんなことはありません。日本における儒教解釈の多様な発展はすごいものだと思います。

山崎 現代の漢学者もよく言うことですが,仏教の中にかなり儒教が入り込んでしまって,私たちにはほとんど区別がつかなくなっています。たとえば墓参りなどは,本来仏教ではありえないものなのです。仏教の教えでは,死ねば第二の生命に移るか,あるいは解脱して本当に仏様になるかのどちらかですから,仏教には先祖などはありません。ところが,儒教の方は先祖崇拝であって,これを上手に接合するとお盆の墓参りなどになってきます。

北岡 中国では実際の血縁によるつながりが決定的に重要ですが,日本はただ続いている形をとっていればいいわけです。

山崎 そのあたりについては,村上泰亮さんと公文俊平さん,佐藤誠三郎さんが『文明としてのイエ社会』(中央公論社,1979年)に書いています。私はあの議論には半分しか賛成ではありませんが,しかし確かにそういう側面はありました。養子を取って跡継ぎにするというやり方です。

北岡 おそらく日本の文化を一色で説明するのはたいへんに困難で,いくつもの多様なものの興味深い組み合わせになると思います。

山崎 それは北岡さんが本書で一貫してご指摘になっていることですね。私は最近書いている文明史の中で,ちょうど北岡さんが西洋について指摘しているような多元性が,日本の中で小さなミニチュアになって実現していたと見ています。中国は中華秩序でアジアは一つだと思っていますが,日本から見ると中国は外国ですから,異質を自覚しながら影響を受けるのです。日本は,はっきり影響だと思って受け容れています。

そこが韓国とは違うようで,韓国は影響とはとらえていません。つまり,儒教は正しいものだから自分たちも信じる。清朝の時代になると,韓国では自分たちの方が本物だと思い始めるのです。つまり,儒教は普遍的なものであり,自分たちがそれを引き継いでいる。清朝はたかが満州(現在の中国東北部)の蛮族にすぎず,国は強いけれども自分たちの方が正統だと言うのです。日本人は全くそんなことは言わず,あくまで外国のものだと思っています。

北岡 朝鮮からすれば,高句麗の時代には中国東北部は自国の版図であったと思っていますから,そこから出てきた満州族がつくった清朝について,朝鮮の知識人は非常に悩んだということなのです。

山崎 そうでしょうね。

北岡 その清朝との関係をどうするか。尊敬できないけれども,従わないわけにはいかない。そこから出てきたのが,実は自分たちこそが本当の中華だという意識(ミニ中華意識)なのです。

山崎 そうです。その点,日本は逆でよかったですよね。武力攻撃を受けるには少し日本海が広すぎるし,文化的影響を受けるには充分近いという,おもしろい関係にありました。

北岡 はい。

(②〔→こちら〕へ続きます。)

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