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2011年10月14日 (金)

著者より:『日本政治史』 「書斎の窓」誌上対談②

山崎正和&北岡伸一 対談:『日本政治史』(→書籍情報はこちらを語る

(①〔→こちら〕からの続きです。)

2 軍国化への曲がり角

山崎 さてその明治期ですが,明治以後については本当に緻密に説明されていて,これだけの頁数では入りきれないほど内容がよく詰まってるので感心しました。

本日は,前史のところと,日本が軍国化していく曲がり角と,もう一つは戦後の終わりという3つに絞ってうかがいます。

昔から司馬遼太郎さんと酒を飲むと,いつも困ってしまう話がありました。どう考えても日露戦争までの日本は正しかった。もちろんそれは,戦争をすることはいけないという左翼論理から言えば日本は悪い国だったのかもしれないし,天皇制も問題だしといったことを言い出せばきりがありません。しかし,少なくとも国際的な振る舞いから言えば,日露戦争まではやむをえず防衛を行って,かつかつで生き延びたという状態です。

そしてそれを主導した人たちも,本書で北岡さんが紹介している,私たちがよく知っている人たち,たとえば大久保利通にしても陸奥宗光にしても,それぞれ対外認識において正確であったのみならず,軍人でさえも冷めていて,決してのぼせ上がっていません。むしろ大衆の方に困ったところがあって,日露戦争の講和のためのポーツマス条約調印(1905年)直後に日比谷で交番などを焼き討ちするといった事件を起こしています。

ところが,どう考えても第二次世界大戦が良い戦争だったとは思えない。そのように司馬さんも私も思うのですが,では,いったいどこで悪くなったのだろう。本書を拝読すると,実に緻密に,少しずつ少しずつ変わっていくことが書いてあります。学問的にはこのとおりなのでしょうが,あえて雑談風に大雑把に言えば,何がまちがいだったのか。

たとえば,対華二十一カ条要求(1915年1月)が悪くなるきっかけの一つで,少なくとも曲がり角だったと,かつて司馬さんと話し合ったことがあります。北岡さんがもしそれを概括されたら,どうなりますか。

北岡 これは,言い換えればポイント・オブ・ノーリターンはどこか,ということですね。どこから後戻り不可能になったかと考えれば,ぎりぎりで言えば真珠湾攻撃(1941年12月)だと思います。

山崎 あそこまでなら,戻ることができましたか。

北岡 真珠湾攻撃直前まで,戻れる可能性はありました。極端に言えば,ハル・ノート(1941年11月)を受け入れればいいのです。

山崎 それはそうです。

北岡 その前の大きな問題は何かというと,全般的な極端な組織化・官僚化の進行です。海軍は海軍のことしか考えない,陸軍は陸軍のことしか考えない。陸軍に負けるぐらいならアメリカに負けた方がいい,などというふうになってきた。自分の所属する組織に対する忠誠が,国家に対する忠誠に対して優位するようになってきた。

日本には,何かルールがあると,次にそのための内規を作り,これに関する申し合わせをまた作ってそれにえらく忠実になるという,悪い官僚メンタリティ(心的傾向)があります。

山崎 それは今でもあります。

北岡 今はもう極端だと思うのです。今は,自分たちの組織を守る方が日本の原発の安全よりも大事だ,というような人たちがやっているのですから,同じことだと思います。つまり,それをどこかで「いや,うちの組織についてはこうだけれども,日本全体からすれば,うちの組織の利害は少し押さえ込まなくてはいけない」と考える人,かつそれを実現できる人がいなくなった,ということです。

山崎 ある短い時期をとると,たとえば加藤友三郎が海軍軍縮(1921年)を認め,陸軍も少なくとも宇垣一成が軍縮を進めようとしました(1925年)が,どうしてうまくいかなかったのでしょうか。

北岡 国益のために自分たちの組織の利害を抑えてもいいという人が少し出てきても,その人がトップを外れ,徐々にその間隔が短くなっていくのです。陸軍で,最後に大胆に押さえ込むことができる可能性があったのは,嫌われ者ですが宇垣一成でしょう。ですから陸軍中堅層は,必死で宇垣を排除したのです。もし1937(昭和12)年に宇垣が首相になっていれば,あの時期に軍の中堅が考えていた陸軍増強案は少し過激にすぎる,無理だとして,押さえ込んだと思います。

その宇垣を,大変皮肉なことに,陸軍の一番のライバルであった外務省の革新官僚が排除するということが起こります。これは日本によくある形なのですが,ずるずると悪くなって,時々良くなって,まただめになるということの繰り返しで,ついに最後にはあそこまで行ってしまったということです。

山崎 もう一つは,本書に細かく書いていらっしゃいますが,政党です。政党では原敬(政友会)は有力であって,もし原がもう少し元気であれば,あるいは原が後継者をつくっていればわからなかったと思うのですが,結局は原敬どまりでしょう。

北岡 あとは浜口雄幸(民政党)もそれなりに努力した人です。ただ浜口は,金解禁(1930年)で経済政策をまちがえました。

山崎 そうですね,また時期も悪かった。

北岡 やはり,歴史を研究していると,運というのがどうしても出てきます。

山崎 それは本当にそうだ。

北岡 私は,世界大恐慌(1929年)が起こらなければ戦争にはならなかった可能性は充分にあると思います。世界大恐慌は,結局軍の台頭を促すことになりました。歴史には,全部良い歴史もないし,全部悪い歴史もありません。必ず両面あって,いま言ったとおり,必然もありますが小さな偶然も重要です。たとえば山県有朋が84歳まで長生きするとは,だれも思っていないのです。

原敬は1921(大正10)年に65歳で暗殺されましたが,普通ならもう少し長生きするはずなのです。それから,海軍では東郷平八郎が87歳まで長生きして,強力に艦隊派の後押しをしました。また,陸軍と海軍が対立する中で,双方が皇族を参謀総長と軍令部長(のち軍令部総長)にかついでしまった。これではどちらも譲歩できません。全局のために譲歩・妥協できる能力を持つ人物がいなくなってしまったのです。

山崎 逆に言えば,それだけ自信と実力のある大物がどの組織にもいなかったということですかね。

北岡 ええ。でもこれは日本社会では創業期を過ぎた組織にしばしば起こることで,次はだいたい年功序列になります。創業期を担っているのは革命を成し遂げた人たちですから,良きも悪しきもこれは自分の国家だという意識があります。彼らからすれば,○期の恩賜の軍刀であるかないかなどは,つまらないことなのです。

長州閥というのは,外の人間から見れば邪悪な組織です。ですが,中の人間から見ると,機構を超えた横断的結合を保証する組織でもあります。そういう意味で私は,本書では派閥というものに比較的肯定的な面も認めています。

山崎 それはいちいち説得的で,そのとおりだと思います。これは日本史自体の,近代史自体の一種の逆説なのでしょうが,細かく事実の一つ一つを追っていくと,やむをえない選択で流れていきます。ところが,少しカメラを引いて遠くから見ると,全くわからなくなるのです。

北岡 そうですね。

山崎 要するに,英米派さらに言えば日英同盟の後退があります。これにはもちろんアメリカの台頭もあるし,外からの変化が随分影響していると思いますが,やがて英米が結託した時に,日本ではそれに対応して,幣原喜重郎など外交における大局観を持った人たちは後退したわけです。後退したのか,あるいは大局観のない人と交代したと言うべきか,そこはわかりませんが。

北岡 私は,学生時代にマックス・ヴェーバーをよく読みました。ヴェーバーの官僚化の鉄則によれば,組織は必ず官僚化し,ルールなど慣習,先例に則った決定になっていく。そうすると,どんどん細分化して行き止まりになってしまい,それは時々カリスマによって中断されるのです。

私は,この官僚化を中断するものの一つは,たとえばビジネスだと思っています。ビジネスでは利潤という形で結果が明確に出ますから,だめだとなれば変えなくてはいけない。それはつまり競争ということです。

ですから,対外競争という視点が国民の内側のエリートの中に充分組み込まれていないのです。政党にしても,国際競争の中で生きているという意識が足りない。国際競争の本当の姿はどうなっているかを,認識していません。

陸軍などは,アメリカは海軍に任せておくという立場ですが,陸軍自身の行動が対米関係をどれほど悪化させるか考えようとしない。他方,海軍は,それまでアメリカを仮想敵としてきたことから,アメリカと戦えないとは言えない。全体として,日本の大きな国益のために協力していくという姿勢が見られなかった。

その一因は,明治憲法に内在する欠陥です。明治憲法では,天皇はそれぞれの国家機関の助言を受け入れることになっています。しかし,それぞれの国家機関が自分の都合だけでモノを言うと,それをまとめる人がいないのです。かつては元老がいましたが,昭和期に入ると西園寺公望一人になってしまいます。強い政党はあったけれども,これが後退すると,もう後がなく,かろうじてこれをとりまとめようとしたのは宮中でした。

山崎 宮中とは,要するに宮内省ですか。

北岡 奥の院が元老である西園寺公望で,それから内大臣,宮内大臣,侍従長ですね。これが,なんとかとりまとめようとしています。

山崎 その最後が木戸幸一内大臣ですか。

北岡 ええ。その宮中を直撃したのは天皇機関説問題(1935年)です。君側の奸が天皇の意思を捏造(ねつぞう)しているという考え方が出て来て,それによって宮中ははるかに防衛的になります。宮中も官僚化し,木戸の時はまさにそうでした。結局宮中の観点は,最終的には国際社会と国内社会の統合だけではなく,クーデタが起こらないようにということで,とにかく国内をまとめることに汲々としています。

そうすると,国内でクーデタが起こるよりは戦争というか対外冒険の方がましだ,ということになってしまうのです。常識的な見解ですが,理論的に言えば天皇機関説問題,事実で言えば二・二六事件(1936年)が強烈な衝撃であったと思います。

山崎 その前に,日本は満州を経営する時に鉄道王ハリマンの協力を断っています(1905年)。しかし私は,交渉の余地はあったのではないかと思うのです。たしかに,南満州鉄道株式会社(満鉄)と競争する並行線をつくられては困るでしょう。しかし,満州には鉱山の採掘権であるとか,その他いろいろな権益があります。それを少しアメリカに分けてやって,満州は日米で共同管理しようではないか,ただし日本の権益は侵さないでもらいたい,という交渉がなぜできなかったのですか。

北岡 ハリマンの時はともかく,後藤新平も,機関車や貨車はアメリカから購入して,それでアメリカの共感を得ようなどと考えていました。田中義一内閣のころまで,満鉄の社債をアメリカで発行することも計画しています。ですから,アメリカ資本を入れようという計画はつねにありましたが,大恐慌が起こったり,満州事変(1931年)が勃発したりして,もう少しのところでうまくいかなかったのです。

山崎 そういう障害があったのですか。悪運ですね。

北岡 ええ,そういうことがありました。またアメリカの中でも,時々反日の動きが起こっています。ですから運の悪いこともありました。

それとは少し別の話ですが,そもそも関東州(旅順・大連)の租借権は1923(大正12)年までなのです。

山崎 なるほどね。

北岡 これはもともとロシアの権益を継承したものです。二十一カ条要求で延長していますが,中国は二十一カ条要求を認めないという立場ですから,1923年に満期といいますか,買戻権が発生するのです。その1923年に起こったのが関東大震災でした。この時に中国では日本に対して同情が湧きます。しかしこれは,また両国がぶつかってアウトになってしまいます。アメリカは,関東大震災にはたいへんに同情的でしたが,ほんのはずみで翌1924年に排日移民法が可決されます。そういう悪い偶然もありました。

山崎 つまり,一貫していないのは日本ばかりではないということですね。

北岡 もう一つの転機は,満州事変が起こった後,列強諸国のビジネスから見れば,中国の支配下にあるよりも満州は安定した,これは投資のチャンスだと,いろいろな国から投資の申し入れが来ています。しかし,それに対して陸軍が,「満州国を承認していない国の投資は受け入れられない」と偏狭な態度をとったのです。これには,どんどん投資を受け入れ,事実上列強の承認を取り付けていくという賢い外交がどうしてできなかったのか,と思います。

山崎 北岡さんがそのあたりがわからないとおっしゃったら,私にわかるわけがありません(笑)。

北岡 ですから,それはセクショナリズムなのです。現に満州国を握っていたのは陸軍でした。彼らには妥協をうまく利用していくという発想がなく,また外務省との間に信頼関係がないというところで,どうしても挙国一致の経営が行えなかったのです。挙国一致経営を行った後藤新平の時代であれば,きっと外国資本を入れたと思います。

特にフランス,ドイツからたくさん申し入れがありました。フランスは二枚舌で行動していますから,国際連盟では日本と対立していても,裏ではうまくやろうとするのです。

山崎 それを言えばドイツも相当に二枚舌で,日独伊三国同盟調印(1940年9月)の直前まで介石に軍事顧問団を送っています。

北岡 はい。よく知られた話ですが,イタリアはエチオピアを侵略した(1935年)けれども,国際連盟には居残っていました。ですから,日本は別に国際連盟を脱退する(1933年)必要はなかったのです。

山崎 そうそう,そこをうかがいたかったのです。連盟脱退は,松岡洋右の単なるフライングですか。

北岡 一番は世論でしょうね。政治も外交も軍事も,時に世論に媚(こ)びてしまう。今日の北朝鮮による拉致問題などに関しても同様ですが,日本はしばしば百パーセントの要求を行います。しかし外交においては,百パーセントこちらの言い分が通るはずがないのです。

山崎 『グローバルプレイヤーとしての日本』にお書きのとおりですね。

北岡 ですから,リットン報告書の採択などは決議されても痛くもかゆくもないというふりをして,日本は満州を実際に統治していけばよいのに,などと思ってしまいます。

山崎 しかも,リットン調査団の結論にはたいへん多義的なところがあって,満州国は承認しないが日本にとって生命線であることは認める,と言っているわけですよね。

北岡 妥協的で,さすがイギリス人という感じのものです。そのことは私は『清沢洌』(中公新書,1987年〈増補版,2004年〉)に書いて,かつて山崎さんに書評していただきました。

リットン調査団の報告書は,発表前にジャーナリストに内示されています。当時の外交担当ジャーナリストはみんな,「なかなかよくできている」と言って読んでいたらしいのです。ところが,清沢洌が次の日に新聞を見ると,「こんなものは話にならない」「一歩も譲れない」という紙面ばかりだったといいます。

山崎 私は,日本近代史を誤まらせたものの一つに,基本的に大衆社会というものがあって,それを代表しているジャーナリズムの罪はかなり大きかったと思っています。そこのメカニズムはどうなのですか。専門の記者が褒ほめているものが,どうして本社でひっくり返るのでしょうか。

北岡 でも,それには逆のメカニズムもあります。私の先生の先生は岡義武先生で,そのお父さんは岡実さんといって,毎日新聞の会長でした。その岡実さんに聞いた話というのを,岡先生から何度もうかがったことがあります。満州事変の最中に新聞各社の社長が集まると,「日本はどうなるのだろう,困ったものだ」と言っていたらしいのです。ところが,現場の方からは威勢のいい取材が上がってきます。満州事変の時期には,戦争報道は売れたのです。

山崎 それは世界的にそうです。イギリスの新聞はクリミア戦争(1853~56年)で伸びた,と言われています。

北岡 これがどんどん過激なことを書くので,時の関東軍が「こんな過激なことを書いては困る」と抗議したこともあるようです。

山崎 有名な話で,ちょうど満州事変の時に大阪毎日と大阪朝日がそれぞれ取材用に飛行機を買っています。この飛行機を使わないと投資を回収できないから,盛んに戦場を飛ばして航空写真を撮り,勝った勝ったと報じているのです。

北岡 ええ,おっしゃるとおりです。

山崎 ですから,戦争が早く終わってしまうと飛行機の使い道に困るから長く続いた方がいい,という雰囲気なのです。

北岡 メディアにとっては,満州事変というのは理想的なイベントでした。

山崎 そうだったようですね。

北岡 一刻も早く原稿を社に持ち帰って,速報を新聞の早い版に載せるというのは,競争の重要な条件です。

山崎 次におうかがいしたいのは,知識人についてです。清沢洌は敗戦の3カ月前に亡くなっていますが,馬場恒吾もいました。吉野作造はもちろんですが,ジャーナリズムにかなりの発言権を持っている学者がいたわけでしょう。その人たちの見解は,これは一括はできないだろうけれども,どうだったのでしょうか。

北岡 吉野作造は,一貫して満州事変には非常に厳しい見解を持っていました。

山崎 ただ,吉野は二十一カ条要求には賛成していますよ。

北岡 その後,「自分はまちがっていた」と自己批判しています。

山崎 そうなのですか。

北岡 吉野は,1915(大正4)年末に起こった袁世凱打倒の第三革命以後,中国の若手留学生や革命派と付き合うようになって,第一次世界大戦中の1916年ぐらいから,「あの時,自分はまちがっていたと思う」と言っており,あとは一貫しています。吉野はとりわけ留学生とのつきあいが多く,しばしば彼らに私費で援助しています。ですから吉野は晩年,すごくお金に困っていました。

山崎 そうですか。

北岡 最後は「貧窮過労死」ではないかというくらいでした。

山崎 そうですか。

北岡 ある時,景品か何かで自転車が当たったのですが,迷った末にこれを売っています。

山崎 驚きました。

北岡 また吉野は,若いころに受験必勝法のような本を書いています。そして彼は,晩年にもう一度『きっとパスする答案のコツ』という本を書いていますが,それも留学生支援のためと思われます。

それはともかく,少なくとも第一次世界大戦の終わるころから吉野は,一貫して九カ国条約,不戦条約体制を支持しています。他に一貫しているのは,石橋湛山,馬場恒吾,清沢洌です。ですがこれは,『中央公論』など,少数のエリート向けの議論なのです。

山崎 でも,馬場の場合は読売新聞にいたわけでしょう。

北岡 馬場が読売の社長に就任するのは戦後(1945年12月)です。

山崎 あれは戦後でしたか。戦中はジャーナリズム活動はしていませんか。

北岡 しています。ただ馬場は戦後,読売の社長である正力松太郎がA級戦犯として公職追放されたのを受けて,読売新聞に迎えられたのです。それで一貫しているのですが,多くの学者は一種の転向をしています。

京都学派が典型的ですが,満州事変という事態をどう見るかで,地域主義(リージョナリズム)を言い出すのです。主権国家体制ではなく,地域という観念で正当化するようになります。しばらくするとこれがさらに進んで,東亜共同体に行ってしまうのです。

山崎 アジア主義ですね。

北岡 確かに主権国家体制はアジアにはよくは当てはまりませんが,そうでない人は,蝋山政道など後で出てきます。その時期になると,レーベンスラウム(生存権)というドイツの影響も受けてきます。そうすると,吉野やそれにつながる人たちは古い過去の遺物だ,というふうになります。

もう一つの大きなファクターは,マルクス主義です。マルクス主義は民族より階級なのです。

山崎 それは,そうですね。

北岡 ですから,民族間の対立を重視しないというのが彼らの特色です。吉野が最晩年に書いたのは,「民族と階級と戦争」(『中央公論』昭和7年1月号)という論文です。満州事変から2カ月ぐらい経ったころの論文ですが,かつて期待した無産政党の一部が満州事変を支持していることを非常に厳しく批判しています。

山崎 本書でも,無産政党についてお書きになっていますね。

北岡 ええ。大正デモクラシーの担い手であった無産政党とメディアが満州事変をなぜ支持するか,と吉野は厳しく批判しています。ただ,これまたいろいろ複合的で,そのような自由主義派の知識人は影響力を失っていたのです。

また先ほどの偶然を言いますと,大恐慌でアメリカの時代はもう終わりだという感じが出てきましたから,当時の『中央公論』や『改造』などの総合雑誌を見ると,資本主義は終わりだという議論が花盛りで,論壇ではマルクス主義が全盛期でした。

それでも,日中戦争が始まると(1937年),一種の厭戦気分が広がり,これに対してかなり厳しい言論統制が行われました。実際に日中戦争の1年目に,上海,南京での戦闘で日本人が随分死んでいます。それに対して満州事変は,けっしてよい表現ではありませんが,「うまくいった」戦争で,犠牲者も少なかったのです。日中戦争はそうではなく,膨大な人が死んでいます。

山崎 ですから皮肉な話だけれども,第二次世界大戦が始まった時に喜んだ知識人が随分いました。

北岡 そうです。

山崎 少なくとも気持ちがさっぱりしたと。つまり,弱いアジア人をいじめる戦争ではなく,強い白人と戦う首尾一貫した戦争だと言って,本気で喜んだ者がいたようです。

北岡 山崎さんは,ご記憶はありますか。

山崎 当時私は小学1年生でしたが,開戦を伝える「大本営発表」(1941年12月8日)というあの平出大佐の声を,はっきり覚えています。私は風邪をひいて学校を休んでおり,朝のラジオの臨時ニュースで聞いたのです。私自身の個人的なことを言えば,身体が弱く,今の物差しで言えばいじめられっ子もいいところで,毎日殴られて帰りました。あの時代に身体の弱い男の子というのは,廃物だったのです。

北岡 そうだったのですか。

山崎 殴られて帰ると,「そんな弱虫でどうするんだ」と,今度は親に叱られます。そんな時代ですから,私は否応なしに反軍国主義になり,校庭の隅で本を読んでいましたが,これはもう許し難い「非国民」です。

北岡 三谷太一郎先生は,汽車の中で「大本営発表」を聞かれたそうです。その時の周りの雰囲気は,「えらいことになった」という庶民の普通の反応が多かったといいます。

山崎 えらいことになった。つまり,悲観的にえらいことになったと。

北岡 といいますか,深刻な気分になった。ですから,喜んだのはインテリではなかったでしょうか。満州事変以来の日本の戦争を知的に正当化するのに苦慮していたインテリが快哉を叫んだのであって,庶民といいますか普通の商売人は「これはえらいことだ」と思ったのではないか,という気がします。

山崎 そうでしょうね。

(③〔→こちら〕へ続きます。)

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