« 著者より:『日本政治史』 「書斎の窓」誌上対談② | トップページ | 著者より:『日本政治史』 「書斎の窓」誌上対談④(了) »

2011年10月14日 (金)

著者より:『日本政治史』 「書斎の窓」誌上対談③

karaoke 山崎正和&北岡伸一 対談:『日本政治史』(→書籍情報はこちらを語る

(②〔→こちら〕からの続きです。)

3 戦後の終わり

山崎 そんなわけで,いろいろ歴史の偶然やら趨勢やらがあって,戦争を行って負けた。本書にもお書きになっていますが,その後占領下で連合国最高司令官総司令部(GHQ)が行ったことは,大半は正しかったと思います。日本国憲法の細部,とりわけ第9条2項などは議論の余地があるにしても,今の私たちの常識からして,男女同権も農地解放も財閥解体も,みな結構なことでした。ですから,私はかぎかっこ付きの,俗に言う戦後民主主義というものを基本的には擁護しているのです。

そこで,吉田茂が行った業績や,軽武装・経済国家という路線で彼の弟子の佐藤栄作まで進んできました。吉田の直接の弟子ではありませんが,田中角栄,福田赳夫,大平正芳の時代までが,私が思う戦後なのです。戦後というか,日本の復興が完成していく。それが北岡さんのお説では「六〇年体制」であり,一般には「五五年体制」と言われる体制がずっと続きます。

本書を取り上げた『日本経済新聞』の書評(5月29日付)も書いていますが,私は六〇年体制という考え方にはたいへん賛成です。あの時の安保の騒動そのものが,当時のいささか軽佻浮薄(けいちょうふはく)な桃色社会主義というか,少し左がかった大衆も生み出しました。けれども,日本がある種の自由主義体制の中で生きていく覚悟は,全体としてはっきりとできました。その後に起こったいろいろな社会的不安,たとえば学園紛争などは,私は身をもって苦労させられた世代ですが,それも含めてエピソードだったと思います。

ところで,五五年体制というか六〇年体制というかはともかく,そういう戦後日本はいつ終わったのでしょうか。

北岡 私は,広い意味では冷戦の終結とともに終わったと思っています。

山崎 その前に竹下登内閣の崩壊(1989年)がありましたね。リクルート事件が表面化し(1988年),その後の参議院議員選挙での自民党の敗北によって,にわかに首相が海部俊樹など小粒になるでしょう。もちろん世界情勢と重なってだけれども,あのあたりが戦後の終わりなのではないでしょうか。

北岡 先ほどの体制のことについて一言補足させていただきますと,私は六〇年体制という表現をよく使うのですが,体制(レジーム)とはある種の復元力を持ったものだと思うのです。ただなんとなく自民党と社会党の割合が2対1といったことではなく,復元力の一つは,山崎さんがおっしゃった自由主義で生きていこうという覚悟だと思います。もう一つは,憲法や日米安保に手をふれるのは危ないからもうやめておこう,という一種のコンセンサスが自民党と社会党の間に成立して,自民党は手をふれない,社会党もあまり抵抗しないという馴れ合いができてしまったということがあります。

私は,本書の一つのポイントとして,内政と外交の連携を重視しています。冷戦の終わりは1989年ですが,その数年前にソ連でミハイル・ゴルバチョフが共産党書記長として登場して(1985年),ペレストロイカ(立て直し)が始まりました。日本では中曾根康弘内閣の後半の時期です。他方アメリカでは,ソ連はもはや脅威ではなく,むしろ日本が脅威だという日本異質論が,1985年ぐらいから急速に広がってきます。

山崎 ありましたね。

北岡 1985年を超えて湾岸戦争(1991年)が起こり,日本は国境を越えて安全保障の役割を果たせるのか,という大きな課題に直面します。その背景には,中曾根内閣後半期の日米間の経済摩擦がありました。

それから,多くの国がすでに消費税を導入している中で,竹下首相が消費税を導入しようとしました。きっかけはリクルート事件でした。要するに1980年代のバブルが淵源です。

山崎 そういうことですか。

北岡 それは,つまるところプラザ合意(1985年)以後の急速な円高の時期には,経済を充分にマネージできなかったと思うのです。その根っこをたどると,アメリカとの緊張があったと思います。そういう意味では,内政だけではなく,外交も視野に入れる必要があるのです。ただ国内は国内で,あの時は確かに竹下内閣退陣後の参議院選挙で土井たか子社会党が勝ちますが,あれは別に社会党の勝利ではなく,一過性のものでした。

山崎 そうです。

北岡 竹下退陣後,リクルート事件で主だった政治家が軒並み疑惑を追及されます。普通であれば,竹下内閣の次は安倍晋太郎内閣だったでしょう。そうなっていれば比較的順調だったのでしょうが。

山崎 私は,なぜか印象的な言葉を覚えています。竹下さんがすでに田中派を解体して竹下派になっていましたが,竹下派の講演会に呼ばれたことがあるのです。講演が終わった後で竹下さんがやってきて,雑談になりました。そして私が聞いてもいないのに,「私たちの世代は,しょせんはつなぎ役です。次の世代につなぐ役だとみんな思っています」と言うのです。あのくらいの世代の自民党の政治家たちが,みんな思っているというみんなとは,安竹宮(安倍・竹下・宮澤)を指しているのだと思います。なんといってもまだ自民党は大政党でしたが,あの言葉は何だったのかと,いまだに意味がわからないまま印象に残っています。

北岡 基本的に中曾根さんまで――竹下さん,宮澤喜一さんも含めていいのですが――,多くの政治家にとって敗戦というのは原点なのです。そこから日本をどう立て直そうかと,その視野の中で考えてきた人たちです。ところがその後,戦後の高度成長期において,高度成長,六〇年体制を所与のものとして政界に入った政治家が台頭すると,やはり小粒になったという感じは否めません。

山崎 そうか,そうか。

北岡 自分たちが生まれ育った環境というのはたまたまできていたものであって,歴史の中で言えばほんの一頁にすぎない,という意識がないのです。

山崎 私は文化論というか知識社会学の方で,よく明治初代と明治二代目,という言い方をしています。非常に大雑把な言い方で,はっきり年齢で線を引けるわけではありません。つまり,一人の男が,自分にとって,俺よりも国家の方が小さい,守ってやらなければいけない,俺の力で守ってやらないと国家は潰れてしまうと思った世代が明治初代です。他方,国家というのは上に大きいものとしてあって,ひょっとすると俺が押し潰されるかもしれない,だから抵抗するかあるいは服従するか,というのが明治二代目です。そうした感覚の違いがはっきり表れてくるところがあります。

それが非常におもしろいのは,話は大正期にりますが,原敬が行った教育改革(1918年の大学令,改正高等学校令公布)です。あの結果,一気にインテリが増えるのです。

北岡 そうですね。

山崎 そして昭和の不況期には「大学は出たけれど」という歌がはやるぐらい,インテリ失業者が増えます。それが収まって一応全員が就職できるようになるのは,1937(昭和12)年です。

北岡 原敬の教育改革までは,大学は5校しかありませんでした。この改革によって正式に大学として認可された大学は,私立大学だけで20校以上ありました。

山崎 旧制高校はナンバースクール8校しかなかったのが,このときに新潟高等学校だとか松本高等学校だとか,地名の付いたかなり上等の高等学校(ネームスクール)がずらっとできるでしょう。

北岡 はい,それが17校です。

山崎 つまり,それが4年経って大学を卒業して,その後そうしたインテリは蓄積していくのですから,増加曲線は非常に急速でした。そのプラス面を言えば,大正―昭和初期には,新聞は各紙とも発行部数が100万部に達し,大衆雑誌『文藝春秋』や『キング』が創刊され,岩波文庫も刊行が開始されています。これはエリート層の少し下の方の人たちですが,中間知識層が出てきました。ともかく,その世代の変化があります。それに似たことが戦後にも起こったのです。

北岡 第一次世界大戦後は景気がずっと低迷し,他方でインテリがわーっと増えたので,産業界が彼らを吸収するのは大変なことだったと思います。私がかつて愛読した山崎さんのご本の中で,『不機嫌の時代』(新潮社,1976年〈講談社学術文庫,1986年〉)が日露戦争後の時代を扱っておられますよね。

山崎 そうです。

北岡 それから『おんりい・いえすたでい'60s』(文藝春秋,1977年〈文春文庫,1985年〉)も愛読しました。こちらは戦後ですよね。

山崎 そうです。

北岡 それがうまく直結するかどうかはわかりませんが,自分がいる環境を所与のものと考えるかどうかは決定的な違いで,明治維新を成し遂げた人たちは,ついこの間まで侍であって戦争をしていましたから,これは全く違います。ですから,中曾根さんにとっては憲法改正を考えるのは当然のことなのですが,その後の人たちはそういうことはあまり考えなくなります。

竹下さんは青年団で活動した人ですし,宮澤さんはエリート官僚ですが,その後の高度成長期には橋本龍太郎さんや小渕恵三さんなど二世議員が中心になります。

山崎 小渕さんも二世議員でしたか。

北岡 そうです。

山崎 あのあたりで政治家の質が変わったし,気構えも変わってきたという感じがします。

北岡 それは全く違います。これも私は『自民党』(読売新聞社,1995年〈中公文庫,2008年〉)に書きましたが,制度化が自民党において進行したのです。かつては,派閥のリーダーは,ほとんどが政界に入った時からリーダーでした。ところがそれ以後は,だんだんまずは1年生,2年生として政界で過ごしていくようになります。竹下さんは1971年に当選5回で内閣官房長官になりました(第三次佐藤内閣)が,これは抜擢と言われたのです。それから首相に就いたのが1987年です。

山崎 そういえば,「10年経ったら竹下さん」などというあの人の歌がありました(笑)。

北岡 竹下さんは,内閣官房長官になってから首相になるまでに,さらに16年かかっているのです。

山崎 本当ですね(笑)。

北岡 おそらく,最初は覇気があり,やる気もあり,日本をこうしたいと思っていても,派閥のボスに10年,20年忠誠を誓っていれば,そんなものはなくなってしまうでしょう。政治には一種の賞味期限といいますか,政界に入って○年間で行うということがあるように思います。

山崎 それも,後の保証がある,ある意味で立身出世の制度化ができているから,逆に言えばそれで彼らは我慢したわけですよね。

北岡 そうです。3,4回ないし4,5回待てば大臣になれるなどと言われ,ずっとボスの言うとおりにしている。それでいざ首相になったら何をしていいかわからず,ふるさと創生事業で1億円ずつ配ろうか,となったのです。

(④〔→こちら〕へ続きます。)

« 著者より:『日本政治史』 「書斎の窓」誌上対談② | トップページ | 著者より:『日本政治史』 「書斎の窓」誌上対談④(了) »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/198678/52980230

この記事へのトラックバック一覧です: 著者より:『日本政治史』 「書斎の窓」誌上対談③:

« 著者より:『日本政治史』 「書斎の窓」誌上対談② | トップページ | 著者より:『日本政治史』 「書斎の窓」誌上対談④(了) »

twitter

サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

Google+1

  • Google+1