著者より:『証券市場論』 「書斎の窓」に掲載
二上季代司・代田純/編
『証券市場論』
2011年4月刊行
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編者の二上季代司先生が,本書の刊行にあたって『書斎の窓』(2011年9月号)にお寄せくださいましたエッセイを,以下に転載いたします。
◆「証券」と「証券化」――『証券市場論』刊行に寄せて
=二上季代司(にかみ・きよし,滋賀大学経済学部教授)
「証券市場論の教科書を一緒に執筆しませんか」。前職(日本証券経済研究所)で同僚だった代田純教授(駒澤大)からのお誘いが奇縁になって,本書(二上・代田共編著『証券市場論』)は世に出ることになった。
章別構成は私の提案である。教科書だから最低限,記述しなければならない範囲・事項は決まっているが,どうせ出すなら私がこれまで温めてきた「証券市場論」のイメージを実現したい。そこで冒頭に序章「有価証券とは何か」を置いて,証券市場論の対象である「証券」の定義から始め,その定義からおのずと各章が派生してくるような構成にしよう,と思った。
そう考えた理由は,近年,「証券」の概念が曖昧になり,隣接との境界がはっきりしなくなっているからである。そこで,この紙面をお借りして,本書が類書と異なる特徴の一端をご紹介できればと思い,筆をとった次第である。
1 金融論の「証券概念」
最も近い隣接分野の金融論のテキストを読むと,「本源的証券」,「間接証券」といった用語に出くわすことがある。これは,ガーリーとショーの2人の学者が「間接金融」と「直接金融」の違いを説明する際に使った用語で,どの金融論のテキストにも使われている。
銀行が預金を集めてこれを企業に融資するのを間接金融,企業が株式・社債を発行して投資家から資金を調達するのを直接金融という。間接金融では,企業が借入れのために銀行に差し入れる借用証文を「本源的証券」とよび,銀行が預金者に渡す預金通帳を「間接証券」とよんで,銀行の機能を,本源的証券を間接証券に変換することに求めている。
こうした「資産変換」機能は商業銀行の専売特許ではなく,貯蓄貸付機関や保険会社もおこなっている。そこで広く「金融仲介機関」の役割を,資産変換を行って貸し手と借り手とのギャップを埋めるという機能に求めている。
ところで,私のような証券市場研究者から見れば,預金通帳や借用証文を「証券」と言われると違和感を持つ。証券市場で売買されていないからだ。しかし,権利内容を証拠づけたものという意味で,法律用語には「証拠証券」というかなり広範囲な概念があり,これには該当するから間違いではない。「譲渡性預金」は売買できるが,例外はこれぐらいで,だから,そう目クジラを立てることもないのであった。
2 「証券化」と現代の「場違い筋」
ところが,どうしても一言,言わねばならぬご時世になった。そのひとつが「証券化」である。不動産やローン,リース物件など,およそキャッシュフロー(賃料,利金,リース料)を生むものはなんでも「証券化」できる世の中になった。実物資産や金融資産が「証券」資産になるということが,かえって異質の資産間の境目を曖昧にしている。
不動産やローンなどそれ自体は「証券」でないものが,「金融」資産,「証券」資産として売買の対象とされる。そのこと自体の根拠を,証券市場論は理論的に解明する必要があると私は思った。
いまひとつの傾向は,「場違い筋」の一般化・グローバル化である。
株式の投機筋が米や綿花などの投機に手を出すことを「場違い筋」というが,この「場違い筋」が近年,世界的に拡大している。いわずとしれた「ヘッジファンド」である。株式,債券,外為は言うに及ばす,原油,金・銀などの貴金属,小麦・とうもろこしなどの農産物まで,デリバティブを取り混ぜて手広く売り買いする。実需からみた原油の適正価格は一バーレル60ドル前後と見られるが,現在,90~100ドル台で推移している。
最近のヘッジファンドの金主は,個人の大金持ちから機関投資家に代わってきている。したがって,原油価格の高騰分は明らかに機関投資家の拠出する投資マネーが押し上げたものである。だから原油は「投資」資産になったとも言われる。こうした状況を反映して,「証券取引所と商品取引所との統合構想」が市場関係者の間から出ている。
つまり金融市場,証券市場,商品市場の境目も曖昧になりつつある。こういう状況も説明する必要があろう。
3 証券市場の証券とは
本書では,証券市場で取引される証券は「資本証券」であると定義している。資本証券とは、①権利内容が「資本収益」請求権であって,②その権利が譲渡性を持ち売買できるものをいう。株式,社債,国債,投資信託が典型的な資本証券である。
譲渡性を備えていても,権利内容が違っていれば証券市場の対象にはならない。たとえば,手形・小切手,倉庫証券・船荷証券は,権利内容が貨幣請求権,商品請求権であって,収益請求権ではないのである。
利子,配当,賃料など定期的な収益は,金融市場で成立している市場金利と同種の所得(勤労所得ではなく不労所得すなわち一種の資本所得)である。だから金融市場で運用先を求めている資金は利回り比較をして有利ならその収益請求権を買おうとする。しかし売買できるためにはその請求権は譲渡できなければならない。
そのためには資本の所有と経営が分離する必要がある。所有と経営が未分離だと所有だけ切り離して売買しにくいからである。そして最近の状況は,①資本収益請求権,②譲渡性の2つの条件が不十分にしか備わっていない資産に対し,「証券化」や各種「ファンド」の受け皿を使ってこれら2つの条件を具備させ,肥大化した投資マネーの利殖要求に応えようとしている姿ではないだろうか。
4 「証券」化,「ファンド」化とは
たとえば,商業用ビルの所有は賃料をもたらすが,そのためにはビルのメンテナンスやテナントの募集・モニタリング,賃料回収の業務,つまり経営労働が必要だ。所有と経営が未分化で,売買できるにしても極めて流動性が低い。ところが,その所有権を特別目的会社(SPC)に移転し,上記の経営労働をすべて外部委託に出してしまえば,収益請求権だけがSPCの発行する社債に化身して売買できるようになる。住宅ローンやリース物件も同様だろう。SPCは所有と経営を分離することで「資本証券」の条件を満たすのである。
また,売掛債権は手形にすればそれ自体が譲渡できるが,手形は貨幣証券であって資本証券ではない。しかし売掛債権をSPCに移転し,その期限前の割引額を資本収益の形に組み替えれば,これも資本証券になる。同様に,延払債権・賦払債権もSPCを使って資本証券に組み替えることができる。
さらに,原油や貴金属・農産物などのコモディティや外国通貨にしても,「ファンド」が投資家から集めた資金で投機的に売買し,その利益をファンドの受益権の配当として還元すれば,これも収益請求権つまり「資本証券」になる。
商品,不動産等の実物資産,売掛債権や外貨などの貨幣資産,ローンなどの金融資産と株式・社債などの証券資産は,もともと概念的に全く別物である。それが「証券」化や「ファンド」化によって,ひとしく「資本証券」に作り変えることができる。経済成長がたとえ鈍化しても,既存の資産を組み替えれば,証券資産の成長率をいくらでも高めることができる。これが,「金融の肥大化」といわれることの実相ではないだろうか。
5 金融の肥大化とバブル
冒頭,ガーリー・ショウの「証券」概念は,譲渡性を要件とせず,単なる「証拠証券」である。それが資本証券でないことぐらいは誰でもわかる。もっとも世の中には,境界線上の多義的な概念も皆無ではない。手形といっても融通手形やCP(コマーシャルペーパー)は短期割引債と異ならないから,貨幣証券でもあり資本証券でもある。
他方,株式の配当と売買益は出所が全く異なる(配当は会社から,売買益は後継の買い手から)が,「ファイナンス」の教科書では,これを「投資収益=リターン」と呼んで区別しない考え方が定着していた。しかし,証券の売買益と商品の売買益とは区別する考え方はしばらく存在していた(「場違い筋」という表現)。
ところが,「証券」化と「ファンド」化の進展で,異なる概念の混同,混交が極度に進んでしまって「場違い筋」と言う言葉は死語になった。「証券」化や「ファンド」化は,あらゆるものを「資本証券」に作り変える可能性を持っている。しかし資本証券の要件である「資本収益」請求権は,その源泉が企業利潤であるはずだ。
ところが,「ファイナンス」の世界では配当と売買益を混交する考え方が一般化しているうえに,証券化やファンド化によって売買益も「利金」や「分配金」に姿を変えるので,資本収益の真の源泉が企業利潤であることが見え難くなっている。そうした観念が支配する現状で,投資マネーの利殖要求に応えようとすれば,いきおい売買益狙いに走らざるを得ないだろう。
先進諸国の企業利潤率は低下し,実物投資は停滞して資本は過剰になっている。そうした過剰資本が累積し利殖要求を強めるときに,その要求を満たしてくれそうにみえるのが,「証券」化であり「ファンド」化である。既存の資産を「資本収益」を生む資本証券に組み替えてくれるからである。しかしそれは,常に過度の投機,バブルの芽を孕んでいるといえないだろうか。
二上季代司(にかみ・きよし)
=滋賀大学経済学部教授
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