著者より:『現代人の社会学・入門』 「書斎の窓」に掲載
西原和久・油井清光/編
『現代人の社会学・入門』
2010年12月刊
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編者の西原先生が,本書の刊行にあたって『書斎の窓』(2011年5月号)にお寄せくださいましたエッセイを,以下に転載いたします。
◆グローバル化・移動・社会学実践
=西原和久(にしはら・かずひさ,名古屋大学大学院環境学研究科/文学部・社会学講座教授)
グローバル化は日常世界に宿る
グローバル化が語られて久しい。グローバル化がグローブ(地球)規模で多様な出来事が生起する傾向の増大を指すとすれば,間違いなく現代社会は,「全地球化」(ハングルの漢字表記),「全球化」(中国語)の様相を呈している。では何がグローバル化しているのか。
グローバル化は,人々の相互行為の場を離れて存在するわけではない。日常生活者の日々の行為の中にこそグローバル化は宿る。そのことをグローバル化のローカルな基礎,あるいはglocalizationと表現する人もいる。いずれにせよ,現代のグローバル化が情報化を含む交通の発達と共に日常世界での行為変容を伴っていることは,自覚的であれ無自覚的であれ,明らかだ。筆者は「食卓のグローバル化」という表現で,グローバル化を生活者の「生」に不可欠な「食」の現場から捉えるべきことを語ってきた。
昨年末,『現代人の社会学・入門――グローバル化時代の生活世界』(有斐閣,2010年)を神戸大学の油井清光教授の助力を得て編んだ。この小編著は,もともと慶應大学の故藤田弘夫教授と刊行を準備していたが,藤田教授の急逝で,また氏の原稿も残されていなかったので,その大きな穴を埋めるべく油井教授らの助力を得た次第である。だが,地域研究の第一人者であった藤田教授は教え子に恵まれていた。彼の薫陶を受け全国で活躍する新進の研究者たちがこの小編著の執筆陣に加わり,そして彼らはローカルな場(例えば瀬戸内の豊島,墨田区の一寺言問地区,あるいは英国の山間の古本街など)での調査と分析を通して,グローバル化とローカルな問題との関連を描き出した。
もちろん,グローバル化の捉え方は論者によって異なる。人気のマンガ・アニメ,ドールなどの文化の場から,あるいは身体の変容や交錯するエスニシティの場から捉えることも可能だ。まずは,現代のグローバル化が日常的な生活世界でいかに展開されているかを見極めることが,社会学にとって喫緊の分析課題である。だが同時に,社会学的分析から見えてきたものをどう解釈し,そしてそれをいかに未来に活かすのかという点も,社会学のもう1つの課題である。筆者はその課題を追求する理論実践の成果を「理念理論」と呼んでいる。「理念理論」の追求は――日常生活者の生活知に基づく「基層理論」と,実証的な経験科学の「中範囲理論」とをふまえた――未来を展望する理論的営為である。この点は,右の小編著の直前に刊行した拙著『間主観性の社会学理論――国家を超える社会の可能性〔1〕』(新泉社,2010年)での1つの強調点であった。
グローバル化と外国人労働者
では,社会学的分析から見えてきたグローバル化の現在とは,理念理論的にはいかなるものか。理論研究者として筆者なりにグローバル化への対応を整理すると,肯定論,否定論,中立論,懐疑論の4つが指摘できる。肯定論は新自由主義の発想に近くグローバリズムと言い換えられる。否定論はグローバリズム批判で地球規模の資本主義化・帝国化を批判する。中立論はグローバル化を不可避な傾向として捉え,その動向を見極めようとする。懐疑論は今日のグローバル化が新奇なものでなく,過去にもみられたことを示して今日のグローバル化を相対化する。筆者自身の立場は,社会学研究者として中立論に立ちながら,否定論をふまえて,理念理論を導き出す点にある。それは,現状の批判点を明示しつつ,グローバル化から見えてくる希望の光を救い出すことである。その論点を以下で示したい。
第1に,今日のグローバル化は,アジアや南米そしてアフリカを巻き込む全球的なものであり,明らかに脱国家的=トランスナショナルな人の移動を伴う。例を2つ挙げよう。1つは外国人労働者問題である。それは1970年ごろから西欧諸国で問題になったが,今日では日本でも争点となっている。アジアと南米からの「デカセギ」(「研修生」を含む)問題である。「時給300円の労働者」などとして告発されていることは,比較的よく知られている。この問題は,制度の根本的な見直しと雇用者側の態度を含めた改善が急務である。もう1つは国際結婚問題である。現代日本では「中国の花嫁」問題として,その仲介業者への高額な支払いや結婚後の「同化」の強制やDV問題を含めて,問題点が指摘されている。そして,これらの問題に関して政府が明確な方針を示さないことの問題も指摘されてきた(*1)。だがこのような問題点は,国を閉ざし外国人を締め出す方向で解決するとは思えない。世界と真正面から関わる/関わらざるをえない時代に私たちは生きているからだ。少子高齢社会,人口減少社会など,日本の状況は高度成長期のイメージでは対応できない。ナショナルな枠を超える発想が求められる。
第2に,そうであるとすれば,いまあるトランスナショナルな動きにかすかに見える希望の光をいかに未来に確実に繋げていくかが重要な問いとなる。筆者は過去3年,長野県の寒村の外国人農業研修生調査を行ってきた。その詳細を論じる紙幅はないが,人口4000人余りの人里離れた農村に750名近い外国人研修生(中国人約600名,フィリピン人約100名,その他)が来ている。この村には農協が3つある。研修生受入団体(組合)も4つある。これだけでも特筆すべきことだが,いまは立ち入らない。受入団体別に,研修生の居住形態も2タイプある。1つは共同宿舎方式。もう1つは農家別棟方式。共同宿舎方式は研修生自身に評判が良くないが,農家別棟方式は仕事以外にも日常的な交流があり,成功例も少なくない。研修生との旅行や帰国後の交流など,人的交流(筆者は「人にん際さい交流」と呼ぶ)の様子が見られ,農家の人々の外国人への見方の変容も確認できる。相互の利益の追求が成功しているケースだ。こうした「共利」関係の構築は「共生」を考える際の1つの基本である。また,国際結婚の成功例も村内外に存在する。中国・福建からの花嫁は,研修生に日本語を教え彼らの面倒も見る。ある中国人妻は研修生受入団体の秘書的な仕事を担っている。いずれも日中の懸け橋をめざす。さらに,ある受入団体の専務は,今後の研修生(公式には「技能実習生」)に対して,文字通り「食の安全」,つまり安全な農作物作りの研修を行い,外国人研修生と共利関係を構築したいという夢を語る。このような交流の芽は,トランスナショナルな交流の方向性として重要な意味を持つだろう。
第3に,上述のアジアからの「労働者」の例だけでなく,南米からの労働者も際立つ東海中部地区を例にとれば,外国人労働者との連携が多様に試みられている点が指摘できる。ポルトガル語で電話相談を行うNPOから,自治会参加や交流イベントの開催,公園での共同作業など,多様な共働の例が挙げられる。戦後日本では未経験の活動が日常生活の草の根レベルから生じている点が肝要である。その積み重ねが,地方自治体や国を動かす力となる。だがそれは,社会学的にもインパクトがある。アジアや南米からの人の移動は国際移動の1つと言われるが,現在のグローバル化の焦点は「脱国家的」な移動の増加にある。それゆえ,社会をスナップ写真のように固定的に捉えるのではなく,移動を軸とする動きとして捉える必要性がある。だとすると,これまでの社会学が主に国家内の市民社会を中心に考えてきた社会概念(筆者が「国家内社会」概念と呼ぶもの)自体を考え直す必要がある。ある会合で韓国の環境社会学者が,アジアの環境問題での連携を説くために the social Asia という言葉を使ったのは印象的だ。socialやsocietyを社会(的)とだけ考えるのは,しかも国家内社会だけを考えるのは,グローバル化時代には適切でない。
第4に,国家を超える交流に密接に関わる論点が人権の問題である。それは国際人権レジームとして語られてきたが,国際は国民国家を前提として成り立つ。そうではなく,国家を超える人々にあまねく適用できるHuman Rights が考えらねばならない。そのとき,何を根拠にこの権利を主張するのか。それが私たちの身体の傷つきやすさ(vulnerability)だ(*2)。自国民の人権は守られねばならないが,他国民の人権はどうでもいい,というわけにはいかない。そう考えてきたのは近代国民国家の特性ではなかったか。戦争がその最たるものだ。だからいま,国家を超えるユニバーサルな基準の構築が強く求められている。
しかしこの論点には,第5として,急いで但し書き的な問いが付け加えられねばならない。それは,ユニバーサルという発想が本当に適切かという問いである。例えば南米の社会学者からは,「ユニバーサリズム」(普遍主義)という発想は「北」の発想で,西洋の近代的人間観を強要し,「南」の文化や伝統を非近代的なものとして切り捨てる発想だと揶揄される。重要なことは,「ユニ」(単一)ではなく「マルチ」(複数)であって,その意味での「マルチ・バーサリズム」が目指されるべきだと提起される(*3)。
ちなみに,筆者自身は現象学の間主観性概念を中心に,現象学的社会学という視座からものを考えてきた。筆者の間主観性論においては,物象化された共同主観的な意識や行動を一方で批判しながら,同時に発生論的で社会構成的な相互主観的行為をいかに実践していくかが問いの中心にある。そしていまこの原稿を,多文化主義政策をとるオーストラリアで書いている。だが現在,オーストラリアの多文化主義は曲がり角にあると論じられる。保守派による国家統合の危機という言説は別としても,理念として掲げた「多文化」が,文化間の交流を伴わない,閉じられた共存にすぎないという批判が生じている(日本の多文化共生も,共生でなく「分生」だとの指摘がある)。マルチ・カルチュラリズムがそうした問題をもつことは容易に想像できる。多文化間の交流の回路をいかに開いていくのか。
そのためには,現象学が示してきた普遍共通なレベルでの(そしてvulnerableでもある)間身体性を土台としつつ,特定個別文化の中で生成した私たちの共同主観性を自覚的に捉え返し,異同を超えて,いかに普遍共通的で特定個別的な相互主観的世界を築き上げるのかが問われる。だが,この理念理論の方向性は過度に抽象的で,理念としては了解可能だとしても,実際にどう対処・実践すべきかと問われよう。そこで現在,筆者自身が考えていることを最後に示したい。
ポスト・グローバル化時代に向けて
それは,各自ができる範囲内での,足元からの脱国家的な相互行為の積み重ねによる相互主観的な世界構築の拡大という点にある。より具体的には,理論研究者として筆者自身は,1つの社会学実践として,(これまで存在しなかった)アジアの社会理論研究者のネットワーク形成をめざしている。もちろん,アジアだけにこだわる必要はない。現時点では近隣だというだけで十分である。北東アジアの文化の共通性(宗教観,家族観,漢字文化圏など)を主張する論者もいるが,この点を根拠にアジアの連帯(戦前のアジア主義!)を主張するわけではない。また近隣であれば,オセアニアや環太平洋の人々との交流を拒む理由は何もない。近さが日常的な交流を可能にする。それらの人々と,環境問題も含めていかに交流を活性化するのか。ナショナルな枠を超えて,ポスト・グローバル化時代に向かういま,そうした各自なりの,国際交流とは別の人際交流的な実践が問われているのではないだろうか。
(*1)その他に,いわゆる残留孤児等の中国帰国者問題やかつての日本からの移民の補償問題から,合格しえない日本語試験を課す外国人看護師・介護士候補者問題,極端に少ない難民受け入れの問題や国際養子縁組の問題,さらには政治や軍事をふくめた国際貢献問題などに至るまでの多数の例を示しうるが,紙幅上ここでは言及するにとどめる。
(*2)Turner, B.S., Vulnerability and Human Rights, Pennsylvania State University, 2006.
(*3)Hanafi, S., Multi-versalism: A New Paradigm?, Global Dialogue: ISA News Letter, 1(3), 2011. http://www.isa-sociology.org/global-dialogue/ およびその日本語版のhttp://www.isa-sociology.org/global-dialogue/newsletters3/GD%201.3.Japanese.pdfを参照されたい。
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