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2011年4月 7日 (木)

書評:『ソーシャル・キャピタルと活動する市民』 「書斎の窓」4月号に掲載

049871坂本 治也 (関西大学准教授)/著

『ソーシャル・キャピタルと活動する市民――新時代日本の市民政治 』

2010年11月刊
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『書斎の窓』(2011年4月号)に書評が掲載されました(評者は,伊藤光利・関西大学総合情報学部教授)。以下、全文をお読みいただけます。

[書評]坂本治也 [著] 『ソーシャル・キャピタルと活動する市民――新時代日本の市民政治』 (有斐閣, 2010 年 11 月刊)

                               伊 藤 光 利
 

多くの先進国で福祉国家がある種の行き詰まりを見せ,日本でも社会が「自壊」し始めているように見える。他方では,ガバナンス化の現象が顕著になり,市民社会組織が活性化している。こうした時代背景のもとで,諸々の困難を乗り越える鍵として,ソーシャル・キャピタル論が注目されてきた。その波は,政治学から始まり,経済学,経営学,社会学,教育学,公衆衛生学,環境犯罪学など広く他の分野に及び,さらにOECDや世界銀行などの国際機関,各国政府,わが国政府の各省,都道府県などの実務世界が,諸問題の解決のツールとしてソーシャル・キャピタル論に期待を寄せている。

●ソーシャル・キャピタル論を「救う」
 

評者はと言えば,十数年前になるであろうか,自分のホームグラウンドである政治学・行政学・公共政策学の分野においてもソーシャル・キャピタル論についての紹介,実践的課題の検討,部分的な実証研究などに接するようになった。そのときのソーシャル・キャピタル論のわが国の研究状況は,学問的手続きが曖昧のまま,願望,思い込み,および性急な実践志向が強く,規範的にも実証的にも,新種の「打出の小槌」を追いかけているように見えた。その後,評者の不勉強と言えばそれまでだが,直感的には重要な何かがあるとは思いながら,今日まで結果としてソーシャル・キャピタル論を「敬して遠ざけて」きた。
 

以上のような先入見をもつ評者から見れば,本書は,いわばソーシャル・キャピタル研究の内部からなされた徹底的な自己批判であり,この概念を学問的に「救う」ことを目指していると言えるだろう。結論を先取りして,本書の特徴ないし意義を述べれば,第一に,広範で多くの先行研究を詳細に批判的に検討することにより,ソーシャル・キャピタル論を学問的に「救う」こと,第二に,ソーシャル・キャピタルに関する実証分析を学問的規律に則して誠実に,つまり気が遠くなるほど丹念に地道に成し遂げたこと,の二点である。とくに,先行研究の批判的検証の部分は,評者の疑念を見透かしているように,その理由を次々と小気味よく解き明かしてくれる。本書は,ソーシャル・キャピタル論が,それが長い困難な道程であっても,学問的信頼性を勝ち取り,現代の諸問題を考える有力な概念として再生しうる方向を明らかにしている。今後のソーシャル・キャピタル研究は,多少とも学問的であることを主張するのであれば,本書の批判的検証に同意・不同意のいずれであれ,それに対する自己の学問的視点を明確にする必要があろう。

●先行研究の批判的検証

先行研究の批判的検証を見てみよう(第2章)。①概念上の問題点,②分析レベルの混乱と齟齬,③因果的推論における問題点,④分析対象の偏り,の4点が検証される。ここでは紙幅の制約から③と④のみに触れておこう。まず,ソーシャル・キャピタル論では,当初は独立変数と従属変数を明確に限定し,他の変数も慎重に統制されていたが,次第に適切な因果的推論がなされないまま,ソーシャル・キャピタルはさまざまな社会問題を解決する「万能薬」の効果をもつと強引に主張する研究が多くなった。こうした傾向がこの概念の「信憑性」を低下させている(73ページ)。評者にとっては,自分の直感的な疑念の理由は何よりもこの「万能薬」願望にあったと解き明かされたのである。最後に,上記3点(①,②,③)の学問的規律の弛緩の結果,ソーシャル・キャピタル論の研究対象は,個人レベルの研究,その効果を自明視してソーシャル・キャピタルの水準・変動を記述する研究,政策出力と政策帰結を明確に区別せずに経済・社会パフォーマンスを従属変数にとる研究と,それぞれ重大な問題を抱えた方向に集中してしまったのである。

●シビック・パワーと 民主主義モデル

著者は,先行研究の批判的研究を踏まえて,第3章でパットナムの『Ma-king Democracy Work』に立ち返り,日本の地方政府の統治パフォーマンスを従属変数,ソーシャル・キャピタルを独立変数として,後者が前者を高める効果を持つかどうか(ソーシャル・キャピタル仮説)を集計データを用いて厳密に検証する。その際,当然ながらソーシャル・キャピタル以外の要因もパフォーマンスに影響を及ぼすことが考えられるために,制度的要因,財政的要因,政治的要因,社会経済的要因が統制変数として分析枠組みに組み込まれる。分析結果は驚くべきものである。日本では,イタリアや米国とは異なり,ソーシャル・キャピタル仮説は確認されず,むしろ統制変数のいくつかが統治パフォーマンスを高める傾向があることが明らかにされる。

日本では,ソーシャル・キャピタルの水準が1990年代以降減退しているとはいえ,国際で見てもそれなりに高いにもかかわらず(29,39ページ),なぜそれが統治パフォーマンスを高めるように働かないのだろうか。著者は,第4章で,媒介変数を取り込んだ修正モデルを提起し,再度検証を行い,その分析結果から,日本では,政治エリートに対して適切な支持,批判,要求,監視を行う市民の力,いわば「シビック・パワー」とでも呼びうるものが地方政府の統治パフォーマンスを高める効果を持つこと,また日本ではソーシャル・キャピタルとシビック・パワーが必ずしも同一の変動を持たないために,「ソーシャル・キャピタル」仮説が実証されないことを明らかにする。そして,地域によって異なるシビック・パワーの高低は,むしろソーシャル・キャピタル以外のさまざまな歴史的(革新自治体の経験)・政治的・構造的(市民社会の活動スペース)・制度的・社会経済的要因(地域の豊かさや規模)によって強く規定されているのである(155ページ)。

第5章では,定性的な事例分析によって,シビック・パワーを担うのは一般市民ではなく,時間的余裕や専門知識をもつと同時に「使命感」等の目的誘因や「楽しさ」などの「連帯誘因」に駆られた弁護士などの「市民エリート」であり,いくつかの政策領域において,その活動が知事や議員などの政治エリートの認識を変化させ,統治をより有効的かつ応答的にすることが明らかにされる。これを民主主義モデルの視点から見ると,一般市民民主主義モデルとシュンペーター流の競争的エリート民主主義の中間に位置する市民エリート民主主義と言えるであろう。このモデルは,ソーシャル・キャピタルの同調圧力という負の側面にも注目した,日本民主主義についての興味深い視点を提供している。

●ソーシャル・キャピタル研究における本書の位置

広範で多様なソーシャル・キャピタル論の分野で,本書はどのような位置を占めるであろうか。著者自身,本書の位置を適切にとらえている(終章)。ソーシャル・キャピタル研究そのものに対する信頼性を高めるには,ソーシャル・キャピタルの効果とその因果経路を再検討する必要がある。一つは,「ソーシャル・キャピタル→自発的協調関係の成立(→より良き統治)」という経路であり,「ソーシャル・ガバナンス」ないし「コミュニティ・ガバナンス」と呼ばれる。ここでは自律的に社会問題の解決を図る「協調する市民」が重要となるバージョンと,問題解決に向けて(地方)政府と連携・協働する「協働する市民」が重要となるバージョンがある。もう一つは「(歴史的・政治的要因など)→市民エリートによるシビック・パワー→統治パフォーマンスの向上→より良き統治」という本書で示された経路である。ここでは,政府を批判・監視するという対抗的な「活動する市民」が重要となる。そして,よく機能する民主主義のためには,二つの経路に示される相矛盾した市民像が共に追求されなければならない,ことが適切に指摘される。

●理論と実証:操作化の問題

本書は,学問的規律に従いきわめて誠実かつ丁寧に理論的かつ実証的検証を行っている。しかしながら,否,それゆえというべきか,理論と実証のリンクにはしばしば困難をともなう。各変数を適切に操作化することは容易でない。本書では,この困難はとくに,データ上の制約から,従属変数である「統治パフォーマンス」の代理指標としてNPM(New Public Management)普及度を用いざるを得ないことに現れる。この操作化はたんに技術的な置換にとどまらず,研究全体の基本骨格とも言うべき仮説までも規定してしまう。NPMはいうまでもなく,ある種のバイアスがかかった概念である。そこでNPM指標に影響を及ぼす要因としては,「協調する市民」や「協働する市民」というより「活動する市民」が浮上しやすく,それゆえソーシャル・キャピタルではなく,シビック・パワーが重要となろう。著者も指摘しているように,政策分野別あるいは争点別に重要な独立変数が異なるともいえる。しかし,この代理指標の問題は,従属変数のみでなく,独立変数,媒介変数,統制変数,つまりすべての変数について言える。このように幾重にも代理変数がリンクされるとすると,読者は僅差のズレの蓄積によって現実とは随分距離のある地点に連れて行かれたのではないかと不安がよぎるのである。それゆえ,著者が自覚しているように,「シビック・パワー仮説」もきわめて暫定的かつ限定的に受け取る必要があろう。しかし,学問的規律に従い誠実に定量的な研究をするには,こうしたやり方以外にはないのも事実である。ソーシャル・キャピタル研究の発展のためには,骨の折れる実証研究の蓄積と研究者同士の建設的な相互の競争と連携が求められよう。

●残された課題

本書は,首尾一貫して学問的規律に則り,きわめて誠実かつ丁寧に理論的および実証的分析を進めたソーシャル・キャピタル研究である。その学問的誠実さと持続力には敬意を表するほかはない。著者は,本書の意義,限定性,そして残された課題を終章であらためて的確に示している。評者から見れば,本書の意義は何よりも信頼性の覚束ないソーシャル・キャピタル論を救う一歩となりうることにある。

最後に,本書の一貫した清々しい緊張感と持続性の源は何であろう。「あとがき」によると,筆者の大学生活は暗く,孤独で,居場所のない寂寥感と不安に苛まされた四年間であり,パットナムの著書名『孤独なボーリング』はそれだけに魅力的だったという。おそらく,居場所を求めての「自己救済」の道は,ソーシャル・キャピタル論の「救済」の道に続いていたのであろう。本書に見られる誠実さに微笑ましさを感じるのは評者だけではないであろう。

(いとう・みつとし=関西大学総合情報学部教授)

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