著者より:『現代青年期の心理学』 「書斎の窓」4月号に掲載
溝上 慎一 (京都大学准教授)/著
『現代青年期の心理学――適応から自己形成の時代へ』
2010年10月刊
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著者の溝上慎一先生が『書斎の窓』(2011年4月号)に寄稿されたエッセイ「社会学的には後期近代・自己物語・アイデンティティ形成でも,心理学的には多様な青年期の自己形成力学」の全文をお読みいただけます。
◆社会学的には後期近代・自己物語・アイデンティティ形成でも,
心理学的には多様な青年期の自己形成力学
――『現代青年期の心理学――適応から自己形成の時代へ』のその後
溝 上 慎 一
2010年10月に『現代青年期の心理学――適応から自己形成の時代へ』(有斐閣選書)を刊行した。この本は,ポスト工業化社会における青年期の自己・アイデンティティ形成の力学や心理的特徴に関心のある筆者が,その土台となる「青年期」の現代的意義・特徴を論じ,整理したものである。このたび本書について語る機会を与えられたので,筆者の本書における独自性がどこにあるのか,筆者が本書をもとにどこへ向かっているのかを述べようと思う。
1 後期近代におけるインサイドアウトの現代青年期
まず,本書の主たる主張点の要約である。19世紀末から20世紀初頭にかけて,青年期は教育の近代化と社会のメリトクラシー化によって,学校教育を通して職業を選択し人生を形成する発達期として成立した。しかし,今日から見れば,近代初期に成立した青年期,ひいては青年の職業選択・人生形成は,社会の力強い求心性のもとで成り立っていたことがわかる。本書ではそれを「アウトサイドイン」の力学――個人が外側(社会)に準拠点を置いてそれに自身(内側)を適合させていく力学――を使用して説明した。アウトサイドインは,求心性の強い環境(社会)のなかで求められる個人の適応力学であり,求心性の強い社会と個人との関係を心理学的に検討するために導入した概念である。
対照的に,構造的な社会の求心性が落ちる(分権的な)ポスト工業化社会においては,青年の職業選択・人生形成が,ライフコースの個人化・脱標準化のもとで営まれなければならなくなっている。A・ギデンズやU・ベックといった社会学者,そして筆者の身近なところではカナダの青年心理学者J・コテら(Cote´ & Levine, 2002)が,こうした近代社会の進展を「後期近代」と呼んで盛んに議論している(以下,便宜上現代を「後期近代」として議論していく)。このような後期近代の社会において,青年は自らの価値や信念を構築し,その価値や信念にもとづいて職業選択や人生形成をおこなっていかねばならない。もはや,外側(社会)に準拠点を置いてそこに自身(内側)を適合させていくアウトサイドインの適応力学ではなく,自身(内側)に準拠点を置き,それにもとづいて行動や活動を外側(環境や社会)に放射していく,すなわち「インサイドアウト」の力学が新たに求められることとなったのである。
2 心理学者の仕事として後期近代を検討する
研究には作業の順序・積み上げというものがあるので,本書だけで筆者の検討しようとしていることすべてを言い表せているわけではない。本書で必要とされたのは,まず後期近代における青年期を心理学者の仕事として位置づける作業であった。タイトルにもわざわざ「心理学」を入れた。これには二つの大きな意味があった。
一つは,社会学的には後期近代になって個人の生(生活・人生)が個人化・脱標準化した。それによって,個人は再帰的に自己物語・アイデンティティ形成をおこなわなければならなくなった,と説明されるが,心理学的にはそう単純に説明されるものとはなっていないことである。筆者のこれまでのデータによれば,社会学のこの説明に乗ってくる青年は約2~3割ほどである。心理学的には,それ以外の多様な職業選択・人生形成をおこなう青年まで含めて,青年期を理解しなければならない。この点については次節で論じる。
もう一つは,後期近代という社会の進展に合わせた青年期の心理学的課題を検討している者が,心理学者のなかにあまりいないことである。したがって,心理学者にとって青年期は,単なる児童期から成人期への移行的発達期としての理解でしかない。しかし,その発達期という枠組みは社会の時代的変化のなかで成立した歴史的産物なのであるから,社会が進展することによってその枠組みの何かしらが変化していると考えることは当然のことである。このあたりに心理学者は鈍感である。枠組みが自明のこととされていて揺らぎが少ない。本書はこのような状況のなかで,(青年)心理学者が理解してきた青年期なるものが社会の進展のなかでどのように成立したのか,どのように変貌して現在に至っているのか,成立時と比べてどこが大きく異なるのか,を現代への変貌に接続するように編み直し,説明をしたものである。(青年)心理学者として現代青年期の問題を検討していきたい筆者としては,まずこの作業をしっかりおこなわなければならなかったのである。
3 インサイドアウトでも多様な自己形成プロセス
データや解析がまだまだ十分でないことをあらかじめ断ったうえで,ここでは,心理学者として後期近代の青年期をどのように検討しようとしているかの一端をお伝えしようと思う。
まず心理学的には,後期近代の青年期課題――自らの価値や信念にもとづく自己物語の構築,アイデンティティ形成――が,そのまま課題にならないことを申し上げねばならない。心理学のなかでこの課題自体は,社会の求心性がまだ強かった1970―80年代でさえすでに言われていたことである。その時代は心理学のなかでは物語概念がまだ登場していなかったけれども,それも90年前後には出そろい,D・P・マクアダムスのようなアイデンティティ形成を物語論で説明し直す者も見られるようになる(McAdams, 1988)。彼らは,新規概念として(自己)物語を使用したのであって,決してそこに社会の進展を重ねたりはしなかった。アイデンティティ形成とはそもそも自己物語の構築なのである,という説明だったのである。だから,このような事情を共有する者にとっては,社会学者は何を後期近代,自己物語,アイデンティティ形成と騒いでいるのだ,というふうに聞こえる。
こうして,(青年)心理学者が青年期発達として検討している「アイデンティティ形成」と,社会学者が後期近代の生の問題として検討している「アイデンティティ形成」とが同じものなのか,という疑問が出てくる。これに対する私の回答は, Yes and No である。
アイデンティティ形成・自己物語だけを見ると,両者の定義はほぼ同じである。しかし,形成プロセスに挿入する要因や文脈を見ると,両者には大きな差異がある。心理学者は,あくまで職業や友人関係,異性,価値観など,個人変数の編み上げによってアイデンティティ形成プロセスを検討する。個人変数は,環境や社会との相互作用のもと形や意味をなしているものだが,心理学者はそれを社会的(歴史的・文化的)文脈のなかに埋め込まれたものであるという暗黙の前提をとる。それに対して,社会学者は,環境や社会との相互作用それ自体を顕在化させて,それとアイデンティティ形成との関係を検討する。乾(2010)の若者の学校から仕事への移行や浅野(2006)の多元的自己論なども,この文脈のもと検討されているものである。社会的文脈を埋め込まれたものとして,そして環境や社会との相互作用の結果の産物としての個人変数のみを並べて扱う心理学者にとって,自己の多元的状況はおもしろいほど問題にならない。社会的文脈を顕在化させない上では,多元的自己も多次元階層的な人格程度の意味にしかならない。両者はまったく違う話であるが。
心理学者がアイデンティティ形成を後期近代の文脈で検討するためには,抽象度の高いアイデンティティ概念を質的な個別水準,すなわち物語レヴェルまで落として,社会的文脈との関係を捨象せずに検討することが必要である。この個別水準まで検討の水準を落とすと,解析の方法論的問題は新たに浮上するにしても,社会的文脈を扱う基盤は成立する。そして,自己物語の概念は心理学のなかでもすでに普及しているし,方法論的にも質的アプローチがずいぶんと整備されてきているので,このあたりの問題はなんとかクリアーしていける。まだクリアーしていない大きな問題は,アイデンティティ形成をアイデンティティ資本と重ねて見たときの現代青年期の状況をどう理解するかである。これはかなり面倒だが,必要な検討課題である。
コテら(Cote´ & Levine, 2002)が「アイデンティティ資本(identity capital)」を提起して議論するように,後期近代でアイデンティティ形成・自己物語が人の生(生活・人生)を構築していくならば,アイデンティティはこれまでの人的資本や社会関係資本とともに,ひいてはそれらを包含して生を方向づけていく,将来に向けての資本となるはずである。これがアイデンティティ資本論である。逆に,アイデンティティをうまく形成できない者は,個人化・脱標準化された後期近代における生を力強く生きられない。
データを見ても,後期近代に合致するかたちでアイデンティティ形成をおこなう青年は,個人化・脱標準化したライフコースのなかで自らの生を構築するために,将来設計やそれに向けての日々の課題化・目標化,そしてそれらの実現に向けての理解や実行・行動をおこなっている。コテの言葉を借りれば,エージェンティック(agentic)な個人・アイデンティティ形成を表している。大学教育の話に絡めれば,彼らはよく勉強してよく遊ぶ(本書『現代青年期の心理学』)――具体的には,学業への意欲が高い,知識・技能の獲得感が高い,友人関係やクラブサークルなどの対人関係や活動が豊かである。自らが日々成長していると実感している。最近の調査結果からは,彼らは他の学生に比べて,第一志望の就職先に内定をとるという傾向も示された。後期近代に生きる青年にはかなり高度で複雑な心理的作業を強いられるが,これだけのアイデンティティ形成をおこなえば,それはコテらの言うように,資本となることが認められる。
ところが心理学的に見ると,実はアイデンティティ形成にもさまざまな種類があって,必ずしもエージェンティックでなくとも,適応的なアイデンティティ形成が認められる。ここで話が一気に複雑化する。
データを見れば,エージェンティックにアイデンティティ形成をおこなわずとも,与えられる課題にうまく対処しそれを解決していくだけで,そしてそれにちょっとした人生の方向性を与えるだけで,人生を力強く進める青年たちがいる。彼らのアイデンティティは,エージェンティックな青年たちのアイデンティティと同程度の確立具合を示す。しかも,彼らの割合は,エージェンティックな青年たちよりもはるかに多いと考えられる。彼らにとってアイデンティティ形成,ひいては人生の構築問題は,個人があって社会ではなく,ど・ち・ら・か・と・言・え・ば・,社会があって個人という力学にもとづいて考えられている。ゆえに,彼らのアイデンティティ形成はエージェンティックな性質を持たない。彼らには,心理学的な意味での自己物語の構築はあるにしても,社会学的な意味での自己物語の構築はない。エージェンティックな青年が示すようなアイデンティティが資本となるという傾向もデータではまだ認められていない。
このような青年たちの示す社会があって個人という力学は,社会の求心性がまだ強かった80年代以前に認められていたものと酷似している。すなわち,あのアウトサイドインの適応力学である。客観的に社会の求心性は落ちているだろう。しかし,少なくない青年の心理学的な生の力学には,依然として80年代以前のアウトサイドインの力学が認められる。筆者が,現代青年期を心理学的に考察していくにあたって,本書でアウトサイドイン・インサイドアウトを論じておいたのは,これを近い将来議論していくための布石である。
こうした状況をどのように理解すればいいだろうか。乾(2010)が述べるように,まだ日本では後期近代の様相が本格化していないということなのか。あるいは,心理学的に見てエージェンシーの問題は,社会の求心性/脱求心性,あるいは近代/後期近代だけでなく,文化的な社会的行為の特質――Markus & Kitayama (1991)が提唱した文化的自己観(相互独立的自己観 vs 相互依存的自己観)のようなもの――が絡んでいるとも見えるが,どうなのか。今,急ピッチでデータを多角的に収集しているので,この検討の結果はまたの機会に報告したい。筆者としてはちょっと面倒な,しかしスリリングな問題状況になってきたと感じているところである。
引用文献
浅野智彦 (2006) 若者の現在。 浅野智彦 (編) 検証・若者の変貌―失われた10年の後に―, 勁草書房, 233~260頁。
Cote, J. E., & Levine, C. G. (2002). Identity formation, agency, and culture: A social psychological synthesis. New Jersey: Lawrence Erlbaum Associates.
乾彰夫 (2010)〈学校から仕事へ〉の変容と若者たち―個人化・アイデンティティ・コミュニティ―, 青木書店。
Markus, H. R., & Kitayama, S. (1991). Culture and the self: Implications for cognition, emotion and motivation. Psychological Review, 98, 224-253.
McAdams, D. P. (1988). Power, intimacy, and the life story: Personological inquiries into identity. New York: The Guilford Press.
(みぞかみ・しんいち=京都大学高等教育研究開発推進センター)
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