著者より:カウンセリングの力量を高めたい人に――『カウンセリングの技法を学ぶ』を刊行して
玉瀬耕治/著
『カウンセリングの技法を学ぶ――力量を高めたい人に』
2008年12月刊
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著者,玉瀬耕治先生が『書斎の窓』(2009年3月号)に寄稿されたエッセイをお読みいただけます。
「カウンセリングの力量を高めたい人に――『カウンセリングの技法を学ぶ』を刊行して」
◆ カウンセリングへの関心
世の中が複雑になるにつれて、人々の心の在りようも複雑多様化し、だんだんと理解しにくくなってきている。新聞紙上では、従来の常識的な感覚では理解しにくい人のことが記事となり、身近に接する人の中にもどう接すればいいのか迷うような人も多くなってきている。このような社会の変化に伴って、人々の心理学への関心は次第に高まり、とりわけ臨床心理学やカウンセリング・心理療法への興味と関心が高まってきているといえる。
人と人が話をし、お互いを理解するのはごく自然なことである。果たしてそこに専門的な知識など必要なのだろうか。分からないことを聴き、自分が知っていることを話せばお互いに分かりあえるはずではないか。ところが上に述べたような事情から、いくら話を聴いても相手の言うことがどうにもよく理解できないとか、こちらはごく普通であると思うことを話していても相手にはいっこうに通じないなどということが起こってきている。そうなると、いったいどう聴けばいいのか、どう話せばいいのかを少し勉強しなければならないと思う人も出てくるのである。
◆ 技法を学ぶ前に
拙著『カウンセリングの技法を学ぶ』は、初心者としてカウンセリングを学びたい人のために書いたものである。しかし、初心者が対象であるとはいっても、この本を読めばただちにカウンセリングができるようになるとはかぎらない。筆者は基本的な考え方としてカウンセリングを次のように考えている。さまざまなストレス状況や自分一人ではどうにもならないような追い詰められた状況に置かれると、人はどのような心理状態になるのか。まずそのことをしっかりと理解することが必要である。心理学一般の幅広い知識は、人の心の多様性を理解するための基礎知識として、できるかぎり幅広く身につけておかなければならない。小手先の技法だけを身につけても、実際には役に立たないだろう。しかし、追い詰められた心理状態になることは大なり小なり誰にでもあるので、自分の体験に照らしてある程度その状態を想像することはできるだろう。
◆ カウンセリングとは何か
では、そのような誰かにすがりたいような思いの時にその人はどうしてほしいだろうか。それを考えてみることが次のステップである。悩んでいる時に、一番聴いてほしいのはどんなことだろうか。カウンセラーと称する人のところに行って、一番してほしいことは何だろうか。相談にやってきた人、すなわちクライエントに対して、カウンセラーは何をし、クライエントはそれによって何を得ることができるのだろうか。カウンセラーのすることが、クライエントのニーズに合っていなければ話にならない。
そうはいっても、クライエントが何を求め、どうなりたいと思っているのかを知ることは、それほど簡単ではない。また、たとえそれが分かったとしてもカウンセリングでできることには限りがある。外科的な方法を用いるわけでもなく、薬物を用いるわけでもなく、それでいていったいクライエントを満足させられるようなことができるのだろうか。カウンセリングはこのような守備範囲と限界をふまえた上で行われるものである。カウンセリングとは何かを論ずることは、従来の歴史的な議論をふまえるとなかなか厄介なことである。ただ、拙著では、突き詰めて言えば、クライエントとともにあって、クライエントの心の成長に役立つようなカウンセリングのあり方を模索しているといえよう。
◆ 技法を学ぶということ
カウンセリングに関する一般書や専門書は山ほどあるといってもよい。大きな書店には心理学のコーナーがあり、その一角にはカウンセリングに関する書物が整然と並べられている。しかし、その中から読者の求めに合う本を見つけ出すことはそれほど簡単ではない。専門的な知識は与えてくれても、ではどうすればいいのかを適切に示してくれる本は意外に少ないのではなかろうか。筆者は拙著が読者の求める一書になっていることを秘かに願っている。拙著『カウンセリングの技法を学ぶ』は、筆者が米国でアレン・アイビイに学び、その後の二〇年間ひたすら研究してきた「マイクロカウンセリング」の考え方に従って書いたものである。この本ではカウンセリングのさまざまな技法について解説し、一つひとつの基本的な傾聴技法について練習課題を設定し、練習の仕方とその技法にまつわる諸問題について解説している。カウンセリングの技法は実際に練習をしないと身につかないし、上達もしない。頭で理解しているのとやってみたのでは大違いである。読者がもっとも知りたいことは、ではどう練習すればいいのかということではなかろうか。拙著は読者のこのようなニーズを想定して書かれている。失敗を重ね、練習を重ねることによって初めてカウンセリングの技法は身につくし、役立つものとなる。逆説的ではあるが、このような練習を経て習得した諸技法は、実際のカウンセリング場面では一切忘れてしまったほうがいい。いや忘れて取り組まなければならないといった方がいいかもしれない。実践の場では、意識としては忘れてしまっても体が覚えているぐらいになっていなければ用をなさないということである。
◆ クライエントをどう理解するのか
カウンセリングの理論には多様なものがあり、それらの理論にしたがってこれまでに無数の技法が開発されてきた。しかしその一方で、カウンセリングの効果性に関する実証的研究の発展にともなって、多様な理論の下での共通項への認識も高まってきつつある。初心者に必要なカウンセリングの技法は、いわばこの共通項に含まれるものであり、どのような理論的背景に依拠してカウンセリングを行う場合でも、ふまえておかなければならない基本的技法があるといえるのである。
話を進めて、ではカウンセリングを行っていく際にクライエントをどのように理解すればいいのだろうか。ここでは技法の問題はひとまず置いて考えていくことにしたい。この点は、カウンセラーが依拠する理論によってクライエントの捉え方が違ってくるだろう。筆者の場合は、アレン・アイビイの「発達カウンセリング・療法」の考え方にしたがって、認知発達論的な捉え方をしていく。何らかのストレス状況にさらされると、人はそのストレスに対処するために防衛反応としての多様な反応を示すようになる。その状況が長引くとその人の本来もっている能力が機能低下してくる。このような状態のクライエントをピアジェの認知発達論にあてはめると理解しやすいというのがこの理論の考え方である。あるクライエントは、まるで幼児が示すような反応をしているとみなすのである。たとえば、息子が不登校になった、夫が浮気をしていることが発覚した、仕事を解雇されたなどの、人生において予期せぬ重大なできごとが起きた場合、多くの人は戸惑い、どうすればいいのかが分からなくなる。この「どうすればいいのか分からない」という状態は、たとえて言えば、まだことがらの本質がつかめず、どのように処理すればいいのかが分からない感覚運動的段階の幼児と似ているのである。この理論は病理の理論から導かれた従来の臨床心理学分野の発想とは異なるところがある。それは健常な人の発達、とりわけ認識の発達をベースに考えていくものである。先に述べたように、クライエントの成長をめざしてカウンセリングに取り組む際に、健常な人の発達の姿や健康の概念を中心にすえたカウンセリングの理論を発展させることが、これからのカウンセリングを考える上で、きわめて重要であるといえる。カウンセリングの求めるものとして、健康とは何か、発達とは何かを中心概念として据えていかねばならないというのが筆者の論点である。
◆ カウンセリングと文化
カウンセリングの実践を進めていく際に、従来の理論ではあまり取り上げられてこなかった重要な問題がある。たとえば、クライエントは世間体を気にして人には話せないとか、思うように行動できないということがあるだろう。しかし、日本社会におけるこの世間という問題を、カウンセリングの要因として正面切って研究の対象とした人は果たしてどれだけいるだろうか。クライエントはある特定の地域の、ある特定の家庭で生まれ、特定の環境の下で育った人である。同様にカウンセラーについてもある特定の文化的背景の下で育ってきた人である。それらの要因がもつ文化の限定性を意識的にとりあげ、その中でどのようなカウンセリングが可能であるのかを決定するのでなければ効果的なカウンセリングを展開することは難しい。カウンセラー養成の中で、このような文化の要因に気づかせ、それを技法の中にどのように取り入れていけばいいのかを考えていくことはきわめて重要であるといえよう。筆者は拙著において文化の要因の一つとして「甘え」の問題を取り上げ、試論を展開している。文化に関わる問題は無数にあるが、効果的なカウンセリング技法を確立する上で是非とも視野に入れておくべきことではないだろうか。
(たませ・こうじ=帝塚山大学心理福祉学部教授)