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2008年4月 1日 (火)

著者より:『精神疾患の行動遺伝学』 本の紹介(書斎の窓に掲載)

Kerry L. Jang/著,安藤寿康・大野裕/監訳
精神疾患の行動遺伝学――何が遺伝するのか
2007年10月刊
→書籍情報はこちら

訳者:安藤寿康先生が,『書斎の窓』(2007年12月号)に寄稿した紹介文をお読みいただけます。


遺伝子について考えるために
 ――『精神疾患の行動遺伝学』を翻訳・刊行して


安藤 寿康

人間の心理現象や行動が,身体と同じように何らかの形で遺伝子の影響を受けているという考え方は,一昔前こそ強い反発を受けたが,近年比較的受け入れられやすくなってきたようである。しかしもう一歩つっこんで,遺伝子が心理・行動にどのように関与しているかについては,一般の人びとはおろか,専門家にすらまだほとんど知られていない。それどころか,長年にわたり双生児研究を通して遺伝と心理・行動との関係の解明に取り組んできてみて,おぼろげにわかりかけてきたことは,遺伝子と行動との関係を問う問い方自体を問い直すことが必要なのではないか,ということである。このたび有斐閣から出版することになったケリー・ジャンの『精神疾患の行動遺伝学――何が遺伝するのか』 を翻訳する中で,改めて直面させられた問題である。

  *  *  *

行動遺伝学が,近年すこしずつ注目を寄せられるようになった理由は,それが生命を形づくる究極的な原因としての遺伝子と行動を結びつけることを謳っているからであろう。行動遺伝学は,双生児法を用いて心理現象の背後にある遺伝と環境の影響を明らかにしてゆく伝統的なアプローチに,分子生物学の方法論を用いて関連遺伝子を突き止める新しいアプローチが加わって,それぞれの長所を発揮しあえる協調のあり方(たとえば行動ゲノミクス〔behavioralgenomics〕などと呼ばれる)が模索されつつある段階にある。近年は,さらに脳神経科学の手法も取り入れ,神経ゲノミクス(neurogenomics)研究が行われるようになってきた。

心理・行動は,遺伝子よりも圧倒的に強く,親子関係や文化など,環境からの影響を受けるという環境主義の考え方が,精神医学や心理学,社会学などの社会科学の間には昔から根強い。社会科学のほとんどの理論はこの環境主義のもとで構築されてきたため,いかに遺伝要因の影響の存在を認め,それを受け入れようとしても,それを既存の理論の中に組み込むことが困難である。行動遺伝学は,心理学や精神医学がこれまでに積みあげてきた心理現象や行動の理論と評価・測定の枠組みに,遺伝学の視点を組み込むベクター(注:ベクターとは遺伝子組み換えや遺伝子治療で,DNAの中に別のDNAを組み込むときの「運び手」の役割を果たすもの)である。

たとえば,心理学が伝統的に用いてきた知能検査や性格検査を数多くの一卵性双生児(遺伝子が100%同じ)と二卵性双生児(遺伝子は50%だけ同じ)に実施してもらい,一卵性の方がより類似していたとすれば,そこで把握される認知能力や性格特性について遺伝の影響があることが示される。もっと複雑な最新の統計手法を当てはめれば,異なる二つ以上の心理形質の間に共通の遺伝要因があるか,発達や成長に伴う遺伝要因の発現の変化があるか,環境条件が異なると遺伝的影響がどのように異なるかなど,さまざまな問いに答えることができる(そのテクニックを説明するのはとても難しいのだが,『精神疾患の行動遺伝学』の第2章「行動遺伝学の基本原則」で,ケリー・ジャンは誰よりもわかりやすくその方法論を紹介している)。

  *  *  *

『精神疾患の行動遺伝学』では,こうした行動遺伝学の手法をさまざまな精神疾患に駆使した成果をまとめている。たとえば,現代社会の大きな問題である「うつ」は,女性の方が男性より遺伝率(集団の個人差のうち遺伝子のちがいで説明できる割合)が高いこと,逆に言えば男性の方が環境のちがいに左右されやすいことが示されている。また,ある人がどの程度強いうつを示すかの傾向と,どの程度強い不安を示すかの傾向には,同じ遺伝要因が関与しているらしいことも示された。さらに,軽度または中度のうつよりも重いうつの方が遺伝の影響が強い傾向にあり,同じうつといっても程度のちがいによって異なる遺伝子が関わっているらしい(本書第4章「気分障害」参照)。

いっぽうパーソナリティ障害においては,障害を持つ人のさまざまな症状やそれに関連する性格特性の遺伝率は,正常な人のそれと変わらない。このことから,パーソナリティ障害はその疾患に特殊な遺伝子があるのではなく,普通のパーソナリティ次元が極端な形で表れたものだという「次元モデル」が提唱される。

一口に精神疾患と言っても,ある疾患名の下で表れる症状はさまざまである。たとえば「大うつ病エピソード」の示す症状として,DSMという標準的な診断基準では「抑うつ感」「快感消失」「体重減少」「不眠」「企死念慮」など九種類の症状が列挙されている。これらの症状は,たとえばエイズのように,HIVという一つのウィルスが原因で起こる単一の疾患で,発熱,リンパ腺の腫れ,肺炎や皮膚ガンといった一連の症状が現れるのと同じように,大うつ病エピソードという単一の疾患が原因となって表れる症状と考えてよいのだろうか。それとも,あたかも日本語を話し,東洋人特有の顔立ちをし,箸を使いご飯とみそ汁が好きだからといって,「日本人」という実体があるわけではないのと同様(たとえば同じような顔立ちをした韓国人,あるいは日本生まれ,日本育ちの白人を想像してほしい)に,個々の症状にある程度共通の遺伝要因や環境要因があるから一緒に表れやすいだけで,それを単一の疾患としては見なせないと考えるべきなのだろうか。

ここを見誤ると,治療すべき対象がもととなる疾患なのか,個別の症状なのかを誤ることになる。もし後者の場合,そもそも「大うつ病エピソード」という実体があるのではなく,それぞれの症状が連動しやすい条件があるから一つの疾患に見えるだけかもしれない。このような問題も双生児のデータを行動遺伝学的に分析し,遺伝要因と環境要因を分けて解析することによって明らかにすることができる。そして実際,大うつ病エピソードは疾患としての実体ではなく,さまざまな連動(併存という)しやすい症状のまとまりに名付けた便宜的ラベルにすぎないことがわかった(本書第3章「分類と診断」参照)。

  *  *  *

うつと共にもう一つ代表的な精神疾患である統合失調症の遺伝率はおしなべて高く80%以上とされる。いっぽう強迫性障害,パニック障害,全般性不安障害などの不安障害は他と比べて遺伝の影響が小さく,環境の影響,とくに同じ家庭で育てられたことによる影響が認められる。同じ家庭のもとで育ったことによる環境の影響のことを行動遺伝学では共有環境と呼ぶが,本書の第7章で扱われるアルコールやたばこのような物質使用についても,この影響がほとんど見られないことが示されている。このように環境の影響についての示唆が得られるのも,行動遺伝学の利点である。また,パニック障害を医師が診断するとある程度の遺伝率が認められるが,コンピュータ診断によるものでは遺伝率がゼロとなるという報告も興味深い。遺伝の影響の探求が,診断基準の妥当性,さらには疾患の認識や概念の再検討へと結びつくからである。

  *  *  *

このように行動遺伝学は単に心理・行動への遺伝の影響の有無を確認し,その先の遺伝子探求の根拠を与える以上に,遺伝と行動との関係を見直し,人間行動を理解する枠組み,ひいては人間観と遺伝観,そして社会観まで変革する可能性がある。本書が精神疾患に適用した行動遺伝学の手法は,あらゆる心理的・社会的行動に適用させて,同様なダイナミズムを描くことが可能だからである。

行動が遺伝子から形成される過程は, 単純な因果律に従うものではなく, 文化環境を含むさまざまな条件のもとで多数の遺伝子が複雑に調整をとり,さまざまな中間生成物を介在させながら時間とともにダイナミックに変容していく。生身の人間で起こるこのプロセスは,DNA情報の発現の化学的過程だけを追っていてもわからない。

「どこまでが遺伝子によって決められているか」という問いがなされるが,遺伝子は生命現象に関わる限り「どこまでも」関わっており,決して「決められて」はいないのである。遺伝子(gene)(ジーン)は生成(generate)の因(もと)であり,中国語では「基因」と訳されてこのまま「ジーン」と読む。これから人間の営みを理解するうえで,生命現象と社会現象の基因としての遺伝子がどのように働いているかを考え合わせることがますます重要になってくるであろう。

格差社会といわれる中で,職業や賃金のみならず教育資源や社会経験の分配の個人差が問題となるいまこそ,背後に潜む遺伝要因の働きまで射程に入れた研究を進めることが,社会の理解と遺伝子の理解の双方に寄与するはずである。冒頭で「遺伝子と行動との関係を問う問い方自体を問い直すことが必要なのではないか」と言ったのはこのことである。

この可能性はうすうす気づかれつつあるが,十分に理解されているわけではなさそうである。手前みそで恐縮だが,つい先だって,翻訳者の一人である敷島が,「一般的信頼」という社会心理学の概念について表した論文が日本社会心理学会から優秀賞を授かる栄誉に恵まれた(敷島千鶴・平石界・安藤寿康「一般的信頼に及ぼす遺伝と環境の影響――行動遺伝学的・進化心理学的アプローチ」『社会心理学研究』第22巻,48-57ページ,2006)。本書の訳者たちは長年にわたり「慶應義塾双生児研究プロジェクト」を組織し,大規模な行動遺伝学研究を行ってきたので,ようやく行動遺伝学が社会学の中でも理解されるようになったと喜んだが,授賞式の席で,いろいろな人に「どこがおもしろいと思っていただけましたか」 とたずね回ったところ, 「なんだかわからないけど,たくさんのふたごを集めて遺伝のことを扱えるのはすごい」という感想ばかりだった。

行動遺伝学の神髄が理解されるのはこれからなのだろう。『精神疾患の行動遺伝学』の翻訳を決意したのも,この領域の面白さを多くの人に知ってもらいたかったからである。本書の最初の読者にもなって下さった担当編集者の中村さやかさんは,訳語の不統一や専門家同士でわかったつもりになっていたわかりにくい訳文の問題点から,原著のミスに至るまで,微に入り細に入り指摘していただいた。そのプロ意識の高さに脱帽である。この本の出版がわが国における行動遺伝学への理解に一役買ってくれることを願っている。

安藤寿康(あんどう・じゅこう=慶應義塾大学教授)

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