本の詳細:『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』 はしがき
田所昌幸/編
『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』
2006年4月刊
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はしがき
ロンドンのヴィクトリア駅から電車で約2時間ばかり南に向かうと,大陸に向かうフェリーが行き交う港町ポーツマスに着く。12世紀末のリチャード1世の時代にその歴史を遡るポーツマスは,長くロイヤル・ネイヴィー(イギリス海軍)の拠点の役割も果たして今日に至っている。
この町にある王立海軍博物館(Royal Naval Museum)には,現在でも1隻の帆船が往時の姿をとどめたまま,保存されている。1805年のトラファルガー海戦でネルソン提督が座乗し,イギリス艦隊を指揮してフランス,スペインの連合軍を打ち破ったヴィクトリー(HMS Victory)である。ヴィクトリーは,1765年にテムズ川沿いのチャタムで進水した第一級戦列艦である。全長約57m,排水量2162トンで,800人の乗員が乗り組み,3層の砲門には100門の大砲を備えていた。気をつけていないと天井で頭を打ちかねないほど暗く狭い艦内は,空気も湿りがちで衛生状態も芳しくなかったはずである。何カ月もこのような環境で過ごした水夫たちの苛酷な日常がしのばれる。
だが,ヴィクトリーは非常に成功した帆船軍艦で,おそらく当時のこのクラスの軍艦では最速を誇り,もちろん実際の速度は風しだいだが,条件がよければ最大8~9ノットで航行できた。そのため,トラファルガー海戦以前にも多くの提督たちに好まれた。英仏海峡および地中海艦隊の旗艦として多くの作戦に参加し,トラファルガー海戦後も1812年まで第一線の任務についていた。つまり,47年間にわたってロイヤル・ネイヴィーの重要な軍艦の地位を保ち続けたわけである。ネルソン提督が今でもロイヤル・ネイヴィーの英雄であるのと同様に,ヴィクトリーもロイヤル・ネイヴィーの誇りであり,公式には現在でも海軍第二卿(Second Sea Lord)の指揮下にあるロイヤル・ネイヴィーの「旗艦」と位置づけられている。
この博物館に入ると,ヴィクトリーにたどり着く前に,1隻の大きな鉄船の姿が目に入る。ウォリアー(HMS Warrior)である。ウォリアーは,1859年にフランスが造った装甲蒸気戦艦グロワール(Gloire)に刺激されて,1860年に進水したイギリスで最初の装甲戦艦である。全長126m,排水量9180トンで,68ポンド砲を36門備える当時の世界最大・最速の戦艦であった。1588年にスペインの無敵艦隊アルマダを打破した時の乗組員が突然生き返っても,おそらくヴィクトリーには大して違和感を持たないだろうが,ウォリアーは完全に異質の存在と見えるであろう。船内はヴィクトリーとは比べものにならないほど広く整然としており,士官の居室はそれなりのものだし,艦内中央に大きな調理用ストーブが備えられ,水兵の居住環境にも格段の進歩がうかがえる。それは,まがうことなく産業革命の一大成果であった。依然として3本のマストによって帆走もできるように設計されていたが,5270馬力の蒸気エンジンが駆動するスクリューによって推進され,最大速力は14ノットであり,11ノットで2100マイルの航海が可能であった。
だが,そのウォリアーは10年もたたないうちに旧式化し,予備役に編入された後,1883年には解役された。その後は練習艦として使われたりしたが,転売されてさまざまな持ち主の手を経ながら,浮き桟橋として繋留されるなど数奇な運命をたどった。一時は危うくスクラップされかかったものの,買い手がつかなかったことが幸いして,なんとか今日まで生き残ることができたのである。
世界の海軍は,19世紀の半ばには木と帆と砲丸から,鋼鉄と蒸気,そして炸裂弾の海軍へと変化していった。1853年に始まったクリミア戦争では,蒸気船と炸裂弾を大規模に使った本格的な戦闘が展開された。ちなみに,蒸気船からなるペリー艦隊が浦賀沖に現れたのはちょうどこのころであり,実は当時蒸気船は国際的にもまだまだ黎明期にあった。このことは,日本が近代的な海軍力で西洋諸国に追い付くには幸運なタイミングであったと同時に,日本が海軍を欧米でも帆船から蒸気船に切り替わりつつあるまさにその時代に,「近代的」な制度として導入したことは,その後の日本海軍のあり方にも少なからず影響したはずである。
だが,海軍における技術革新は,19世紀末から20世紀初頭には一層加速し,次々に登場する新しい装備がそれまでの装備を急速に陳腐化させた。海軍は,きわめて高価なハイテク分野となったのである。トラファルガー海戦からちょうど100年後,日本海海戦が戦われた1905年に,ポーツマスの造船所でドレッドノート(HMS Dreadnaught)の建造が開始された。翌年進水したドレッドノートは,全長160m,排水量1万8000トンで,約800人の乗員が乗り組み,タービンエンジンによって当時としては驚異的な21ノットの速力が出せ,五つの砲塔に装着された10門の12インチ砲で武装していた。ドレッドノートは,その後第二次世界大戦までの40年間,世界中の戦艦の基本的なモデルとなり,それまでの戦艦は一挙に旧式化してしまった。それ以降,世界中の海軍国は,熾烈な建艦競争の展開に参加するか,それとも海軍国としての地位から脱落するかを迫られることになったのである。
このような革命的な影響力をもったドレッドノートの寿命は,ウォリアーよりもさらに短かった。就役してわずか8年後,第一次世界大戦が始まったころまでにはすっかり旧式化しており,第一線でドイツ海軍との本格的な海戦に参加する機会は,ついに来なかった。ドレッドノートの唯一の目立った戦果は,1915年にスコットランド沖でドイツの潜水艦U-29を沈めたことだが,それも体当たりによるものだったことは示唆的である。ドレッドノートは1919年に予備役に編入され,1920年にはスクラップとして売却されたため,今日この歴史的な戦艦は全く姿を見ることができない。
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本書は,ヴィクトリーからドレッドノートの時代,つまりナポレオン戦争が終結してから第一次大戦が勃発するまでの「広義の19世紀」のイギリスと,しばしばパクス・ブリタニカ(Pax Britannica, 「イギリスの平和」)と呼ばれるこの時期の国際秩序の実像とを,ロイヤル・ネイヴィーに注目しながら理解しようとするものである。
ロイヤル・ネイヴィーの起源は,来襲するデーン人を海上で迎え撃った9世紀末のアルフレッド大王の時代に遡ると言われる。当時の弱小なアングロ=サクソン諸王国にとって,イングランドをとりまく海は,七つの海への窓口でも天然の要害でもなく,恐るべき外敵の進入路だったのである。その後イングランドの海軍は,国王の関心と必要に応じて随時編成・運用されたが,その任務の多くは兵員の大陸への輸送であった。だが,ヘンリ7世は造船業や海運業を奨励し,ヘンリ8世は,造船において大型の軍艦に大砲を搭載するなど海軍力の充実に力を注いだ。そしてその遺産を受け継いだエリザベス1世は,スペインの無敵艦隊を破る歴史的勝利を収めた。もっとも,ジェームス1世が即位したころにはスペインとの対立も一段落していたので,海軍は大削減され,英仏海峡に出没する海賊すら満足に取り締まることができないまでに弱体化した。
17世紀の一連の政治的変動を経て,海軍は王室の私有財産ではなく,永続的な国家制度として確立した。ピューリタン革命(1642-49年)で処刑されることになるチャールズ1世は,不人気な新税を導入して海軍力の拡大に努めたが,革命後のクロムウェル率いる共和国政府も,カトリック勢力であるフランスやスペイン,通商上のライバルであるオランダの海軍に対抗すべく,チャールズ1世以上の海軍力整備に乗り出した。王政復古(1660年)後のチャールズ2世時代になっても,とりわけオランダとの戦争を戦う上で,海軍はなくてはならない存在として重視され続けた。イギリスの海軍がロイヤル・ネイヴィーと呼ばれるようになったのも,チャールズ2世の治世からである。1642年に内戦が勃発した際,議会勢力に忠誠を誓った35隻からなる艦隊は,1688年には151隻にまで成長し,名誉革命の結果迎え入れられたオラニェ公ウィレム(ウィリアム3世)に忠誠を誓った。そしてそれに続く「長い18世紀(1688-1815年)」に,イギリスは数々の戦争に勝利を収め,それ以降,ロイヤル・ネイヴィーは名声を不動のものとする。
ロイヤル・ネイヴィーがイギリスの独立と繁栄を担保する重要な国家制度であったことは,つとに知られている。だが,ここで検討する「広義の19世紀」には,アルマダとの海戦もトラファルガー海戦もユトランド海戦(1916年)も登場しない。本書は,華々しい決戦での戦術を分析する戦史を望む読者の期待には応えられない。また,当時の海軍の軍艦や装備についての詳細な情報や分析も,われわれ執筆者の関心と能力の範囲外である。だが,大規模な艦隊決戦がなかったからといって,この時期のロイヤル・ネイヴィーが無用の長物だったわけではない。むしろ,イギリスの絶頂期であった19世紀には,ロイヤル・ネイヴィーは欠かすことのできない役割を果たしていたし,艦隊決戦が起こらなかったことこそが,パクス・ブリタニカの本質と関係していたのである。
それとともに,この時代にロイヤル・ネイヴィーは,大きな時代の波がもたらす新たな課題に,次々に直面した。それは,急速に進んだ技術革新であり,イギリス社会の自由主義的変化であり,戦略環境の変化であり,さらにはイギリスの経済的地位の変化であった。もとより本書は,19世紀のロイヤル・ネイヴィーとイギリス外交についての包括的な検討を行うものではない。帝国主義や植民地主義や自治領の海軍など,重要なテーマが本書では直接的に取り上げられていない。それでも本書は,ロイヤル・ネイヴィーを語ることによって,この時代のイギリスとイギリスが主導した国際秩序についての理解を深めることをめざしている。
まず序章では,19世紀のロイヤル・ネイヴィーとイギリス外交についての鳥瞰的な構図を提示し,続いて第1章では,ナポレオン戦争後のロイヤル・ネイヴィーの実際の活動においてきわめて重要な位置を占めていた,奴隷貿易の取り締まり問題を取り上げる。これは,今日では忘れられがちだが,当時のイギリス外交の重要課題であった。自由主義的な覇権国であったイギリスは,砲艦外交や帝国主義的膨張政策と同時に,このような人道や自由主義的な価値の追求のためにも海軍力を精力的に運用していたのである。そこには,この時期のイギリス社会の自由主義的な変化とともに,強硬な砲艦外交の担い手として知られているパーマストンの,意外に原則論的かつ道義主義的な一面も垣間見える。
第2章では,クリミア戦争を取り上げる。それはクリミア戦争で,この時期の最大の本格的な海戦が展開されたからだけではない。この戦争を契機に,ウィーン会議以降フランスへの警戒感によって一応イギリスとまとまって行動していたロシア,プロイセン,オーストリアなどの諸列強間に亀裂が生じるとともに,フランスがイギリスとともにロシアを打ち負かすことによって旧敗戦国の立場を清算することに成功した。つまり,ヨーロッパ国際政治の構図が,ウィーン体制からの構造変動を経験したからである。またこれは,海軍力による低コストの実力行使でイギリスがヨーロッパ政治で優位に立てた時代の,終わりを画する出来事でもあった。
続いて,19世紀のロイヤル・ネイヴィーを幅広い当時のイギリス社会の変動の文脈で理解するために,第3章では技術革新とそれに対するロイヤル・ネイヴィーの対応について,第4章ではロイヤル・ネイヴィーの人事や教育のあり方について論ずる。19世紀には蒸気機関,鋼鉄船,炸裂弾の導入と,技術上の大きな革新が生じた。ロイヤル・ネイヴィーがこのような革新にどのように対応し,それがパクス・ブリタニカにどのような影響を与えたのかを論ずるのが,この二つの章のねらいである。
第5章では,ヴィクトリア朝後期のイギリス外交とロイヤル・ネイヴィーについて論ずる。周知のように,19世紀末にはドイツとの建艦競争によってイギリスの優位性が徐々に掘り崩されていく。帝国主義時代の最高潮にあって「日の没することのない」大帝国となったイギリスは,巨大な海軍力を誇示していたが,外見とは裏腹にそれはパクス・ブリタニカの黄昏であった。この時代のイギリス外交の姿を論ずるのが,この章のテーマである。
ところで,フランスはこの時期,つねにロイヤル・ネイヴィーのライバルとみなされてきたし,地政学的にも技術的にも,フランス海軍はロイヤル・ネイヴィーの挑戦者たる条件を備えていた。実際,イギリスではしばしばフランスの海軍力の脅威が声高に論じられる「戦争恐怖騒動(war scare)」が起こった。だが,結局フランス海軍はロイヤル・ネイヴィーに対抗できる存在となることなく,20世紀初頭の建艦競争で落伍し,ドイツやアメリカなどの新興海軍国の後塵を拝する立場に転落してしまった。ロイヤル・ネイヴィーのライバルだったフランス海軍については,これまでほとんど語られてこなかった。イギリスとロイヤル・ネイヴィーを,そのライバルの視点から見てみるのが第6章のねらいである。
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