本の詳細:『大学のエスノグラフィティ』 はじめに
船曳建夫/著
『大学のエスノグラフィティ』
2005年4月刊
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〈はじめに〉
いまは大学にとって過渡期かも知れません。かも知れません,と確信がないのは,変化していることは感じられても,どこに行くのかが分からないので,過渡期ではなく,たんなる大学の消滅期である可能性もあるからです。これは大げさではなく,大学の形骸はあってもその実質が失われて,たんなる研究所の集合体,かつ各種学校の集合体として残るだけのような不気味さも感じています。少なくとも「これまでの大学」の消滅は十分あり得ます。
しかし,大学が便利な考え,効果のある道具,を作り出すだけのところではなく,その先まで突き詰めて考えるところであり,そのことによって生まれる「原理」が現実から乖離しているように見えても,それは現実事象が正しくとらえられていないから,それは現実世界の方が追いついていないから,と主張するひた向きな人たちで作られている限り,その中身は,今後も変わらないと思います。つまり,そうした人間たちが構成する大学には,第1章「ゼミの風景から」で明らかにした学ぶ行為と師弟関係があり,第2章「大学教授の一日と半生」で描いた生活があり,第3章「大学の快楽と憂鬱」で表した喜びと苦しさがあり,第4章「大学人の二足のわらじ」で示した課題が残りゆく,と考えるからです。
その意味では,この本は現在を書いて,大学というものの常のあり方を見てみようというところがあります。その時,私がある大学のある研究をしている一人の個人であることは,描く大学像に不足やゆがみをもたらさないか,という問題が出て来ます。それはもとより認めるところです。個人の一視点から大学がどのように見えるか,その中に,どのような大学の本質といえるようなものがかいま見えるか,が狙っているところですから。また,読者の中には私が属している東京大学は特別の大学で,そこは平均的でもなく,一般的でもなく「大学」全般をとらえるには不適当と思う読者もいらっしゃるかも知れません。しかし東大が真の意味で「ユニーク」なほどには日本の教育界に多様性はありません。良くも悪くも東大は,日本の大学の典型だと考えます。
ただ,大学がいま過渡期にあるとしたら,私の描く大学が,過去に長く続いた大学の姿と,現在変わりつつあるもののあいだを揺れることになります。実際,この本にはそうしたところがあり,どちらが大学の真の姿なのか,という疑問を読者が持つかも知れません。しかし,むしろそうであるからこそ,大学のいまの姿を,その二つの違いの間で「動いているもの」として表現することになるかも知れないと考えています。
本の題名にある「エスノグラフィティ」は,私の畏友落合一泰氏が,その著書のタイトル『ラテンアメリカン・エスノグラフィティ』に使われた造語を借りました。私の研究している文化人類学では,ある集団や社会の全体を記述したものを「エスノグラフィ」とよんでいます。しかし,この本は大学の生活を書いたものですが,そうした「全体」を描こうという構想はもとより無く,私の視点から切り取ったいくつかの大学についての「走り描き」を重ねたものになっていると感じられたので,こう名付けるのがふさわしいと考えたのです。
2005年3月
(ふなびき・たてお=東京大学大学院総合文化研究科教授)