編集部員より:校正の楽しみ・苦しみ
校正という作業は「出版社が本を刊行するための多くの工程の最後に行う点検作業」で,「書物の表面的・内容的な誤りを直す作業」である。これを行うのは(1)専属の校正者,(2)編集担当者,(3)企業外部の個人・組織,であるが,出版各社ともそれぞれの事情でさまざまな体制をとっている。
有斐閣の場合,10年くらい前までは独立した校正部があったが,現在それはなくなり,書籍編集第2部では,主に校正を担当する編集部員が3名という体制になっている。上の分類では(1)(2)(3)の混合型ということになろうか。
私は校正部に異動したのが1981年で,曲折はあるものの,以後ほぼ一貫して校正を仕事としてきている。その間に校正作業の内容も大きく変わってきた。著者の手書きの原稿を活字で組んでいた頃は,まず正確な原稿照合,つまり原稿が印刷所で正確に組まれているかどうかを点検するという大変根気のいる作業から始まった。癖字の著者もおられるから,そのあたりの読解能力は必要だった(〇〇先生の字は××さんしか読めないなどといわれていた先輩の編集者もいた)し,形の似た字が組まれていないかに神経を使った。
現在は著者からいただいたデータを加工して印刷所に渡すのだから,この原稿照合という作業は基本的には不要になった。直しも活版のときには,直した字だけではなくそのために動いたところもすべて点検する必要があった。活字が横になったり上下が逆に入ることもあった(著者名で,田の字が逆さまに入ったまま本にしてしまったことがあった。山田先生ごめんなさい)。
原稿照合という工程が大幅に減ったので,確かに以前に比べれば時間は短縮されたかもしれないが,校正そのものが楽になったわけではない。一般に素読みといわれる,校正刷り(ゲラ)を読み,誤りを指摘し,さまざまな事項を確認・訂正したり,わかりにくい文章に手を入れる作業は過去も現在も変わらない。印刷所の組み間違いが減った代わりに神経を使わなくてはならないのが入力時のタッチミスと変換ミスである。これらの場合にはまったく文章の意味が変わってしまうこともあるので,見逃すと罪が重い。
校正という作業は地味で目立たない作業である。これを称してある先輩は「プロンプター」といった。プロンプターとは舞台の陰で俳優が間違えないように小声で台詞をつける人,歌舞伎でいう黒子である。観客には見えない。俳優が完璧に台詞を覚えていればまったく不要。しかしいるだけで心強い陰の存在。これが校正者の理想像であろうか。
校正の楽しみ・苦しみということでいえば,はるかに苦しみの方が多い。なにせ結果において間違いがなくて当然なのだから,その過程でいくつ間違いを指摘したかは問題にならない。校正ミスはどう言い訳をしても校正をした者の責任である。そして注意をしたつもりでもミスは出る。つらいことである。
校正中に出会うさまざまな疑問点を,資料にあたったり推理を働かせて解決していくことは楽しい作業である。ましてそれがうまくいけばなお楽しい。そして著者や読者から安心感や信頼感をもたれることが校正者にとっての最大の喜びなのだが,これは容易に顕在化することはない。顕在化しなくても,それらがあると信じて,それを求めて校正をする。
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