著者より:『教育心理学ハンドブック』 編集委員による座談会(下)
日本教育心理学会/編
『教育心理学ハンドブック』
2003年3月刊
→書籍情報はこちら
編集委員による座談会の模様です。
現代教育の課題と教育心理学の役割(下)
――『教育心理学ハンドブック』の刊行をめぐって
司会 子安増生(京都大学大学院教育学研究科教授)
市川伸一(東京大学大学院教育学研究科教授)
森 敏昭(広島大学大学院教育学研究科教授)
無藤 隆(お茶の水女子大学子ども発達教育研究センター教授)
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高等教育での教育心理学の役割
◆子安◆ 初等中等教育,小学校から中学校・高等学校までの学校教育については教育心理学の研究と実践がかなり広く行われるようになったと思うのですが,2つの残る問題があると思うのです。1つは幼児教育の現場,もう1つは我々自身のいる大学という高等教育の現場です。
それでそのお話に移りたいのですが,高等教育に関して言いますと,今年の5月に,ニュージーランドにあるオークランド大学のエマニュエル・マナロ先生により京都大学で英語の集中講義が3日間とワークショップが3日間行われました。
彼はオークランド大学のステューデント・ラーニングセンターの所長をやっている方ですが,話していくうちに日本では「ラーニングセンター」という概念があまりないことがわかりました。カウンセリングセンターのほうは,センターであるか懇話室的な小さなものかは別にして,どこの大学でもカウンセラーを置いていて,学生のメンタルヘルスについて大学が取り扱うべきだということは浸透していると思うのです。しかし,学生の進路も含めて,学習の問題についての専門相談機関という概念が日本の大学にはない。「日本にラーニングセンターがあるか」と言われたら,「それに類するものはないのではないか」と答えざるを得ない。初等中等教育のところはかなりよくなってきたとしても,高等教育については今後どうなっていくべきかをまずお話しいただければと思うのです。
◆森◆ 教材研究にしても,大学の教育実践研究がいちばん遅れている気がしますね。
◆市川◆ ファカルティ・デベロップメント(FD=大学教員を対象とした研修活動)ということでこのごろはずいぶん重要視されているし,日本でも教育工学ではその話題も結構ある。大事な領域だし,教育心理学をやっているぐらいですから,授業の工夫とかアイディアは持っている。ただ,残念ながら,日本の教育心理学者はそれを研究として煮詰めていくことをあまりやってこなかった。
◆森◆ 大学の先生も授業をするので実践の現場にいるわけですけれども,自分は実践をしているのだという意識があまりない。実践研究というと小中高の学校教育の実践が研究対象で,自分自身の大学での教育は実践ではないかのような意識があります。
◆市川◆ 実は,私が『教育心理学研究』に初めて出した論文は自分の大学での授業の実践だったのです。1987年のことで,それはコンピュータの授業でした。普通の学術研究とは全く見なされないようなもので資料として出してもらえたのです。おそらく大学の研究者はそういうことをやりだせばワッと出てくるのではないか。
◆森◆ 火をつける人がいればですよね。そういうものは教育心理学会がリードして,良い面白い論文が『教育心理学研究』の中に載ったりすると,大学教育の実践研究が活発になる。自分がフィールドにいるわけですから,足下を見つめ直して研究するという意識も出るでしょう。
◆市川◆ 最初,自分の大学の授業がフィールドだと思いついたのは,小中高に入りづらかったからなのです。当時は経験もほとんどないし,小中高に行っても邪魔にされるだけではないかと。それならば自分の学生に教えることというのがいちばん手っ取り早いのではないかと思って,いろいろな授業評価のデータをとることから始めました。
日本でなぜラーニングセンターがないのかというのは,多分,日本の学校はそれなりに受験勉強もあって,学習スキルみたいなことはそこで結構身につけていた面もあったのではないかと思う。外国だと受験はあまり厳しくないのでスッと大学に入って来て,ノートも取れないから,ノートテイキングから始まって,大学で学習スキルを身につけないといけないところがあったのかもしれない。ところが,日本も最近は大学が広き門になってきて,入試科目数も減ってきて,学習スキルを身につけないまま大学生になる人がどんどん増えてきた。ですから,需要もかなり高まるのではないかと思います。
◆無藤◆ それはかなり高まると思います。学習スキルのよくできた教科書を教育心理学者が何冊か出していますし,授業実践のコツのようなものが何種類も出ていますから,それをもう少しフォーマルな研究に持っていくことは十分できる。多分,現場の実践としては,大学一年生の最初の授業でそういうことを意識してるのは普通だろうと思います。
我々の所なども,多分,国立大学法人となったときに始まると思うのですが,ティーチング・アシスタントに,ガイダンスだけではなくて勉強の仕方まで指導させようではないかと。だから,ずいぶん教育心理学者が活躍する場になっていくのではないでしょうか。
◆子安◆ これから大学を法人化することによって,より教育のウエイトが高まると思うのです。大学がエリートのものであった時代であれば勝手にやれ,自分で発見するのがいちばんいいのだということだったわけですけれども,どうも東大や京大辺りでもその原理だけではいかなくなってきている。
そのときに,1つは自分の進路や学科の選択ということで進路自体を選ばなければいけない。あるいは,演習の受け方や卒論の書き方,そういうものに対していつまでも放任でよいのかが大きな問題になってくると思うのです。
◆市川◆ ハンドブックでは無藤さんがそういうことも書いてくださっていますから,そういうときにこれが必要になると思うのです。
◆子安◆ 東大だと進学振り分けがありますね。あれは学生がどこを選ぶかいろいろとストラテジーがあると思うのですが,そういうものは全く学生任せですか。
◆無藤◆ 教養学部に進路指導の先生がいるでしょう。
◆市川◆ ガイダンスはします。迷った人はそういうガイダンスを受けられるようにはなっています。昔よりもだんだん丁寧にやるようになってきています。
◆子安◆ 広大の場合は初めから心理系として学生をとっているのですか。
◆森◆ 最初からとっています。
◆子安◆ そうすると,学生にとってあまり迷う余地はないのですか。
◆森◆ いや,迷う場合には転コースとか転学部をやっていますので,毎年そういう人が何人かいます。
◆子安◆ それはある枠内で可能なのですか。
◆森◆ 可能です。学生の相談窓口として,うちの学校は全員チューター制度という学年担任のようなものがあます。私は2年生のチューターをやっているのですが,15人から20人ぐらい,全員の先生がいろいろと身の上相談もすべて組織的にやっています。全員がその15人ぐらいの学生が卒業するまでチューターとして面倒を見ます。4年間ずっと同じ人を見るので,なかなか気を使います。事故を起こしたり,大学に出てこなくなったりすると家庭に連絡を取ったり,そういうことをやります。
◆子安◆ 京大の場合は少人数教育を数年前から始めまして,ポケットゼミと称しています。教育学部は小さな学部ですが,大人数の学部が多いものですから,入った途端に右往左往です。ですから,大学とはどんなところかというイメージをつくるために,全学の半数ぐらいしか枠がないのですが,5人から10人程度の半期のゼミで大学そのものを学ぶ場を1年次に用意しているのです。
◆森◆ 最近はそういうことを教えてやらないと,気付いていない大学生が増えているような感じがしますね。それこそ市川さんの話で言うならば,「もう1つの学力低下論」というか,知識・理解などではなくて,学ぶ方法ですね。昔だったら伝承されてきていたと思うのですが,それがあまりない。大学に入ってからも縦の交流があまりないので,見様見真似で先輩から学んでいくようなことが少なくなっているような感じがします。だから,そういう機会を設けて,何か仕掛けをつくって教えてやらないと,自ら自然に学んでいくということが減ってきている。
幼児教育と教科教育の課題
◆子安◆ さて,もう1つの課題である幼児教育のほうはどうですか。
◆無藤◆ 幼児教育は日本保育学会や日本発達心理学会など,かなり大きな学会があって,割と盛んです。
◆子安◆ そのような学会と棲み分けたほうがいいということですか。
◆無藤◆ 棲み分けという感じはありますけれども,ともに関心事は教育であるわけですから,教育心理学会でももう少し扱えたほうがいい。多分,会員の中に幼児教育にかかわっている人がかなりいると思うのです。ただ,幼児教育の研究は質的にやっているので,今の『教育心理学研究』の中ではもちろん認められるのですが,しっくりいかない部分がまだあると思います。
◆森◆ あと,遅れていると思うのは生涯学習ですね。まだ非常に研究が少ない。
◆無藤◆ そうですね。社会教育,高齢者や家庭の主婦への教育です。
◆市川◆ 教育心理学がどういう世界に入っていくかというときに,私の最初の印象は教科教育に入っていくのは結構大変だという印象を持っていたのです。教科教育それ自体がそれぞれエスタブリッシュされたものになっていて,権威もいる。数学だったら数学者を頂点として数学教育学者がいる。教育心理学者が何か研究をした上で入っていこうとしても,数学者に比べたら我々の数学の知識なんて赤ん坊のようなものですから,それがそこの業界の教育に口を出すのはすごくはばかられる雰囲気があった。
最近になってそうでもなくなってきたけれども,ひと昔前はそれがあった。そういう抵抗がない所では結構歓迎されるのです。例えば,日本語教育はもともとそんなに権威ができていない新しい領域で,使えるものは何でも使ってこれからやっていこうという領域です。あるいは,社会教育がそうです。実践として入っていくときもそういうあまりエスタブリッシュされていないところのほうがいいかなと。情報教育も同様です。だから,私はそういうところに入っていってそこの人と連携するほうが入りやすいのではないかという思いを持っていました。実際,そうやって入っていくとそこから広がっていって,教科教育の中でも心理学者にかかわってもらおうかという雰囲気になってきた。
◆森◆ 教科教育の先生も心理学に対する見方が変わってきたような感じはしますね。教科教育の先生がいちばん弱いのは研究法だと思うのです。データ解析や統計法に限らず,現象を分析していくためのデータに基づいて客観的に理論を組み立てていくような手法がない。それを心理学に期待しているような感じがします。
◆市川◆ 教育心理学は,「本当にどれだけ効果があったのかということを客観的に見よう」「内的プロセスがどうなっているのかもデータをとりながら見よう」という方法です。認知心理学が出来て,学習者の内的プロセスを語る言葉が心理学の中にたくさんできた。教科教育の中にはそれがあまりなかったと思う。
学習評価の問題
◆森◆ それから学習評価の問題ですね。教育心理学者は評価が強いところだと思うのです。学習評価は教育心理学者がもっと頑張って,事実に基づいて教育を変えていく。そういう発想をもっと教育界に入れていくべきだと思います。
◆無藤◆ そうですね。評価は,個別の学習者の評価もあるし,今は教員側の指導力の評価も入ってきたし,学校評価も入っている。従来は,学力検査はあるけれども割と簡単な検査ですよね。それだけでは意欲も何もわからないのだから,量的な指標,質的な指標をもっとしっかりやっていこうと。それがやっと認められてきたような気がしますね。
こういう『ハンドブック』を読んでほしいといつも思う簡単なことを言うと,私もよく質問調査で子どもの状態を見ます。それを評価に使いたいときに,心理学者がつくる質問用紙は尺度だから同じような質問項目が何十項目かあって,長いではないですか。それを学校の先生に持っていくと,「これとこれは重なって無駄だから1個でいいのではないか」と必ず言われる。そうしたら5分でわかると指摘されて,いや,そうではなくて,信頼性というのがあってとか,いつも同じことを説明しなければいけない。そういう概念が学校現場,特に主任クラスの人たちに広がるといいなといつも思うのです。
◆市川◆ 尺度を構成するという発想は心理学独自なのだと思います。教育社会学者は1つの項目で何か言おうとする。それは個々の子どもを見るというよりは,たくさんのデータをとって相互に比較ができればいいからそれでもいいわけです。心理学の場合はミクロに1人ひとりの子どもについてデータを出す。それを何らかの学習指導に活かしたいとなれば,ある程度の信頼性を持った尺度をつくらなければいけない。そこら辺は心理学独自の考え方なので理解されにくいでしょうね。
教育政策とのかかわり
◆子安◆ 学校での評価体系を変えるのに,心理学者の影響力が非常にあったと思うのです。それだけではなくて,学習指導要領の改訂にあたっても当然そうです。例えば,総合的学習の問題,あるいはそれ以前のさまざまな学習指導要領の改訂に関しても,心理学者がかかわってきた。そのことも含めて,教職教育やカリキュラムなど学校のさまざまな活動に対して教育心理学者がかかわってきたということですね。
◆無藤◆ 今年の『教育心理学年報』に藤澤伸介先生がレビューを書いている中でも「教育心理学者の役割」ということで触れられていましたが,教育心理学者がそういった要請にかかわるにしても教育政策にかかわるにしても,純粋に研究の論理だけではできなくて,価値判断を含み,大ざっぱな議論になるしかないのです。しかし,教育心理学者としては,リサーチベースを多少とも持ちながら発言するというスタンスがあると思う。教育学者といってもいろいろな方がいるから簡単にはいえないけれども,教育学者に対して教育心理学者が独自の役割を果たし得る。文部科学省や各自治体の施策にしても,各学校レベルにしても,心理学者がかかわるところで,健全なベースでそういう役割を果たしてきているのではないか。
◆子安◆ 無藤さんは生活科にずいぶんかかわられたわけですね。もう10年ぐらいになるのですか。
◆無藤◆ 12年です。
◆子安◆ その狙いはいくつかあったと思うのです。例えば,幼稚園と小学校の連携の問題が言われました。子ども自体の生活力が落ちているから,学校でそれをつけようということがあります。社会や理科のような体系的な学問をやる前に,現実を先によく知る,特に身の回りの現実をよく知るということがあったと思うのです。その狙いが生活科を通じてどこかで評価されると思うのですが,無藤さんご自身としてはどうでしょうか。
◆無藤◆ 半分成功,半分はうまくいっていないというぐらいですが,少なくとも総合的な学習への準備にはなった。ですから,総合的学習がプラスだとすればそういう意味合いはあった。幼児教育と小学校教育をつなぐかなり大きな役割は果たしたと思うし,学校が体験活動を増やすのに貢献したと思います。
ただ,全体が良かったか悪かったかは評価をしなければいけないのですが,その努力が足りないので,客観的に第三者なり生活科に批判的な人も説得できるようなデータを出していかなければいけないというのが10年間の反省です。
◆子安◆ 半分失敗というのはどんな側面ですか。
◆無藤◆ 良い学校はいいのだけれどもそうでもない学校もあるなと。
◆子安◆ 先生の力量にかかわっているということですね。
◆無藤◆ それにずいぶん左右されている。それは公立学校としてはどうだろうかと疑問もあります。
◆子安◆ 教育心理学が生活科そのものをより良きものにするためにかかわっていけるとしたらどんな点なのですか。
◆無藤◆ 幼児教育,生活科,総合的学習という流れの中で,先ほどのことで言うと教科学習ほどしっかりした知識ベースというか,ディシプリンとしてのベースがない。心理学的な発想がそもそも入っているものですから,教育心理学者がかかわる意味は相当大きいですね。特に実際に,教育行政に心理学者がかかわることが増えたと思うのです。
それを進めるためには,1つは教育心理学的な概念と内容的な事柄をもう少しつなげるようにしていかないといけない。例えば,飼育・栽培の活動の中でそれをより良くするにはという内容を持っている。それは心理学者も勉強してかかわっていかなければいけないだろう。もう1つは評価の問題です。その2つは相当重要だと思うのです。
◆森◆ 日本では教育評価の専門家というと統計の専門家みたいなイメージがありますよね。実際の教育現場で求められるのは,もっとマクロなレベルの評価の手法です。ところが,日本で教育心理学会の評価の専門家というとカミソリを研いでいるようなところがあります。実際の教育現場の問題の評価にはあまり足を踏み込みたくないのかな。そういう人が多いような気がします。
◆市川◆ 実際には,梶田叡一先生や若い方では鹿毛雅治さんなど,教育現場における評価のあり方をやっていらっしゃる人もいて,今後はますますそういう人が増えていくといいですね。統計的手法のメーカーではないけれども,先端的な手法も活かしながら,どうやってそれを学校現場で理解していくかという方法がこれからかなり求められるでしょう。
政府の審議会や委員会に出ていて教育心理学者が頑張らなければと思うのは,教育論議が極端なほうに揺れないようにすることです。10年ぐらい前ですと,「知識詰め込み」が殺し文句になって,「自ら考える」というようなことばかりが強調されてしまう。教育心理学者でしたら,構造化された知識をしっかり持って,それを問題解決に活かしていく。知識がなければ理解や問題解決はできないということで,知識の重要性を説いてきたと思うのです。
ところが,委員会などの議論でも,知識人や文化人と呼ばれている人たちが知識軽視の発言をして,「これからは知識の時代ではありません」,「コンピュータの中に知識があるのですから人間には知識は要りません」,「人間は物を考えればいい」というようなことが雰囲気として染みわたってしまう。
教育の中ではそういう二項対立的な議論がいつもあります。絶対評価と相対評価,内発的動機づけと外発的動機づけもそうだと思うのです。心理学は既にそういうことを繰り返してきて,それなりにメリット,デメリットの関係を考えてきた。そういうことをしっかり発言していくべきではないかと思います。
◆子安◆ 総合的学習と系統的学習の関係も同じ問題だと思うのですが,市川さんはかなり総合的学習にかかわっておられました。その経緯といいますか,心理学者の役割がどうあったのか,また,今後どうあるべきなのかということでご意見があれば。
◆市川◆ 私が1994年から95年ごろに当時の文部省の委員会に入ったときには,総合的学習をつくることはもう決まっていた。その中身をどんなものにしたらいいか,という1つの委員会に入ったのです。当時は,教科の系統的な積み上げ学習はもう古いというイメージがあった。むしろ,総合学習ではそういうものにとらわれずに,伸び伸びと子どもの思いを生かしてそれを支援するみたいな雰囲気もあったのですが,多分,心理学者だとそういうものは逆に違和感を感じると思うのです。
教科の学習がベースになってそれを活かす。自らテーマを決めてそれを追究していく。我々だと大学生の卒論指導は一種の総合学習に近いと思う。その方法論は,それまで実験演習という形で心理学の学生は積み重ねてきて,決められたメニューを毎週こなしてレポートを書いてという基礎訓練をやっているのです。
そういうレパートリーがすでにあって初めて自分のテーマを自由に追究できるわけです。最初から「自分で好きなテーマを追究してみましょう」といってもできるわけがない。大学生でもできない。それを自由放任的に好きなテーマを追究させればいいという言い方に対しては,きちっと追究の方法論を教えるべきだということを議論してきました。方法論としては何を教えるべきかということをはっきりさせよう。基本的な知識や問題追究の技能の指導を先生がきっちりやった上でこそ自分のテーマが追究できるのだということは言ってきたつもりです。
若い研究者へのアドバイス
◆子安◆ 今の話は次のテーマの,これからの若い研究者にどうアピールするかの問題につながります。それと同時に,学校の現場の先生に対して教育心理学がどのように伝えていくかという問題に入っていきたい。
この『ハンドブック』でいちばん面白かったのは無藤さんの章だと思う。非常に率直に書いてありまして,ここまで書いていいのかなというところまで書いてある。これはぜひ若い人に読んでいただきたい所です。
◆無藤◆ それは実際に私が大学院教育をやっていますから,毎年入ってくる院生たちに指導する中身です。最初に始めたころは私が院生のころに受けたやり方,要するに先生の興味のある論文がいきなり渡されて,とにかくよく読んでいくことだった。あるときにそれでは無理だということに気がついた。それに必要な学習スキルを持っていないのです。
学習スキルというのは非常に技術的なこともあるのだけれども,学問研究よりも態度みたいなものも含む。何のために研究をするのかということです。そのときにいちばん参考になったのは認知的徒弟制という概念で,私が研究者としてやっている研究活動・実践活動があるのですが,それに巻き込むことが大事だと。それと,通常のゼミのほかに,英語や統計は訓練だと思っているので,そういう訓練をしないといけない。英語の論文の読み方は決まっているわけですから,海に放り出すようなことをしないできちっと教えたほうがいい。5年大学院にいてもそれを持っていない院生がいたりするのです。だから,最初から訓練をしたらいいということで,この10年ぐらい毎年メモをつくりながらやってきた。そのエッセンスを書いたわけです。
もう1つ思うのは,教育心理学の場合には研究と実践の二面性というか,研究者として良い研究をするのと,学校現場の実践にもかかわらなければいけないということがある。臨床心理学もそうです。臨床心理士であってもなくても実践と研究をする。それは臨床心理学の歴史の中で言うと,よくボールダーモデル(*)と言うけれども,サイエンティストであることとプラクティショナーであることをどうやってつなげるか。アメリカの大学院教育の議論でも繰り返し問題になって,今でもあまりスッキリしていないと思いますが,そういうことも少し勉強しながら考えていく。具体的には院生に対して研究訓練と同時に実践の場を与えて参加させていく。要するに2本立てなのですが,それをつなげるようにする。つなげる意味をわかるようにする,ということを上手にやらないとばらばらになって,院生はその2つの要求の間で苦しむわけです。そこがまだ難しいなと思っているのです。
* ボールダーモデル――1949年,コロラド州ボールダーでの会議で臨床心理学の科学者―実践家モデルが採択された。
◆子安◆ 先ほど,高等教育の実践論文が出ていないという話がありました。論文はあまり出ていないのですが,我々教育心理学者は自分の学生を指導することが即ち実践であるという意識が非常に強いと思う。この本全体を通じてそういう意識が書かれている。例えば,学会誌の投稿の細かいノウハウや注意事項を本に書くような学会は他にないのではないかという気がするのです。
◆無藤◆ そうですね。この『ハンドブック』の各章はどれも読者イメージを持っていると思う。特定の修士の1年生や卒論生に対して語っていると思いますよね。その語り方や心理学的な意味での普段の指導の自覚が二重,三重の仕掛けになっています。
研究者として実践家として
◆森◆ 実践的な力とアカデミズムの世界で生き抜く力の両方を身につけなければいけないわけです。私は10年ぐらい前までは,学生に「実践現場に出るのは城戸奨励賞(*)をもらってからでいい」と言っていましたが,最近は少し考え方が変わってきましたね。以前は,習得サイクルで研究法の基礎・基本をしっかり身につけ,力を蓄えてから現場に出たらいいというイメージだったのです。しかし,そうすると永久に実践のほうに目が向かないようです。だから最近は,習得サイクルと探究(実践)サイクルの同時並行でないとうまくいかないという感じがしてきました。
* 城戸奨励賞――城戸幡太郎が若手研究者を奨励したいということで,寄付を申し出られ,それを基金として1965年に創設された日本教育心理学会の論文賞。
最初は大した実践はできないかもしれませんが,もっと実践の現場に目を向けることが大切だと思います。もちろん,しっかりいい研究をして,城戸賞をもらえるような論文を書く力もつけないといけないのですが,そちらのほうだけに注意が向いて現場に目を向けなくなってしまう院生が多い。少数はそういう力を身につけて現場に出ていきますけれども,早い段階で大した実践ではなくてもとにかく現場を見る体験をさせないと,習得サイクルと探究(実践)サイクルがうまくつながらないような感じがします。
◆市川◆ そういう意味では,今の若い人たちはチャンスが増えてきたと思います。私も,最初に基礎研究をやって「城戸賞はもらえなかったけれども学位は取ったので」という感じで教育実践に入っていった。今の人たちだと,とにかく学校から来てほしいと言われる。指導助手みたいな制度ができて,TT(ティーム・ティーチング)として大学院生に来てほしいとか,学校に学習相談室を開くので大学院生に来てほしいということがだんだん増えてきた。人によっては学部学生のころからチューターのような形で学校に入るチャンスも出てきた。環境的に臨床心理学のスタイルに少し近付いてきたかなという気がします。その中で子どもと接しながら,大学ではしっかりした方法論を身につけて研究をしていく。いつも子どもと接する中での問題意識をもちながら,それを研究として進めていくにはどうしたらいいかという,両方が頭の中にいつも浮かんでいるようなことになってきたのではないかという気がしています。
◆森◆ 北尾倫彦先生が自分の研究人生を振り返って,研究者としての自分と実践家としての自分がつながらなかったと『ハンドブック』のコラムに書いておられましたけれども,少し前までだとそうなるのだと思うのです。北尾先生のような少数の有能な人だけが両方の世界の中で生きて,でも結局は本人の中でうまくつながらなかったということなのだと思うのです。
9対1でも8対2の比率でもいいですから,若いときから習得サイクルと探究(実践)サイクルの両方を同時に回していないと,2つのサイクルがつながらないのではないかなという感じがします。
◆無藤◆ 私も北尾先生に近いような感じがあります。2本立てで30年やってきました。内側での対話があるようには思いましたけれども基本的には2本立て。あるいは,場によって変えて,どっちが表であってもとにかく裏の顔は出さないという感じはありました。それがこの10年,両方の顔を出しながらつなげて議論をしても聞いてくれる人が増えた。それから,学校現場もかなり変わった。心理学的な話と現場をつなげながら議論することが歓迎されるし,少数ですけれどもそれを求める先生も出てきた。
◆子安◆ 奈須正裕先生の所の「教育心理学者は切望されている」(第3章5節)というのもそうだと思うのです。ただ,一方でいろいろな研究をさせてもらおうと思っても学校のほうで時間的な余裕がないというのが大きな問題としてある。授業そのものの時間数が減っていますし,学校の先生が以前より忙しくなっている。二重の意味で,若い人たちが行ってすぐに受け入れてもらえないという問題があると思う。ですから,自分の研究の意義を説得する,本人が納得していないものを他人に説得はできないですから,それを説得するだけの何かを持たなければいけない。
教育現場に入る
◆市川◆ 10数年前だと,こっちにやりたいテーマがあって,そのデータをとらせていただくという感じでやっていた。ところが,最近の入り方はこっちも学校の何かを手伝う。例えばコンピュータの授業では先生も手が足りない,そこに行って手伝う。そこで何らかの研究テーマを見つけたり,子どもと接する経験が増えることによって研究にも活かせる。
そういう関係ができると,次はデータをとらせてほしいと言ったときにスムーズにいくのです。昔は何のお手伝いもせずにデータをとりたいのでとらせてくださいとか,授業を観察させてくださいと言ってビデオを回していた。そういう感じの付合い方だったのが変わってきて,持ちつ持たれつ助け合う関係になっている。私は若い学生にはそれを言いたい。つまり,単に自分の研究の手段として学校に行くのではなくて,普段から学校の先生と何らかの関係を持って,研究会でもそれぞれの持ち味を出してディスカッションする。学校に行ったらそれぞれの役割を持って子どもにかかわることを一緒にやるという関係をつくることではないかと思います。
◆無藤◆ それはなかなか難しいけれども,院生のうちに始めればそういう感覚が身についてくると思う。私は40歳半ばぐらいからそれをやろうと思って始めた。東大の佐藤学さんと会ったときに彼は年間80日現場に行くと聞いた。自分もやってやろうじゃないかと思って2,3年やったのですが,忙しい中でやるから非常にくたびれる。
いろいろなレベルの付き合い方があります。夜の飲み会も一緒にしなければならなくなる。ある年齢以上でそれをやると大変ですけれども,院生ぐらいだと学校の先生に弟子入りするようなスタイルをとれるので割とやりやすいと思う。何せ,私が始めたころは指導力もないのに指導者として行かなければいけないという,助言者と言われてしまうのは非常に困りました。
◆市川◆ 私はそれに引け目を感じていたから,行くのが怖かったし受け入れてもらえないだろうと思っていました。それで,大学に子どもを呼んで教室を開いたり個別指導をしたりということから始めて,先生に「我々の研究会に出てアドバイスをください」といった形でかかわっていった。そうしたらこっちも学校に行きやすくなってきた。
私にとって学校は最初は非常に敷居が高かった。でも,今の大学院生は最初からそういう場がある程度用意されていて,一緒にやっている研究会があるし,学校からも来てくれと言われるのですから,そういうチャンスを利用してほしいですよね。
◆無藤◆ もう1つ,私はいろいろな形でかかわる中でときどき厳しい批判を現場の先生から受けてきた。今でもたまに受けます。それはこちらの態度が悪いということもあるし,指導力が乏しいということもあるのですが,データは取り放し,見ているだけで役に立たないではないかと言われるわけです。
大部分の先生は礼儀正しいからそんなことは言わないのだけれども,内心では思っていると思う。たまに親しくなったときに厳しいことを言ってくれる人がいた。そういう目に何度かあってつらいことはつらいのだけれども,それを経なければいけないなと思います。研究者というのは完全に現場と一体というのは無理ですよ。研究という視線は実践とイコールではないですから,そこに馴染みながら対立していく。それをどう対話の形にするかというのは難しいけれども大事だと思うのです。
◆子安◆ 私は院生と一緒に幼稚園に3年間通って,毎週1回2時間ぐらい参加観察しました。それは園長先生の理解があるということが大前提で,そうでなければ受け入れてもらえません。それから,余裕があるということ。幼稚園教育でいいのは余裕があるということです。小学校,中学校になるとなかなか余裕がない。
園児は我々を先生と思っているのか何と思っているのかわからないけれども,受け入れてくれる。困ったことがあると先生代わりに話しかけてくれる。小中高になってくるとそういうわけにいかなくて,どういう位置づけで子どもたちの間に受け入れてもらうかということが難しいのではないかと思います。先生方の間では話がついても,児童・生徒の中で自分をどのように受け入れてもらうかということは難しい問題があると思うのです。
◆無藤◆ 私にとって非常にプラスになったのは大学に付属幼稚園も,付属小学校もあった。それで大学の授業の実習の中で付属小学校の観察をした。自分のやりたいことをやろうと。週1回といってもいろいろな都合で休むから,年間30回ぐらいやったと思いますけれども,同じ子どもたちを3年間追いかけた。それはすごくためになりましたね。
非常に面白かったのは,そういうことは学校の先生もしたことがないのです。自分が担任の間は見ているけれども,ずっと追いかけることはない。そうすると,私は付属幼稚園にもかかわっていて9年間知っていますから,何人かについては私がいちばんよく知っている。幼稚園のころに観察した子が小学校5年生かな,そういう記憶を持っているのは学校の先生にもいないという,それは研究者しかなかったのです。
◆子安◆ 若い人が卒論や修論を書くというとそこまで時間的な余裕がないので,それはプロの研究者の仕事と思いますね。
◆無藤◆ そうなのです。ただ,研究と言わなくてもいいから,何年も見ることは,卒論から始めるとできるのです。そういう学生は何人もいます。もちろん,それは研究としても良くしなければいけないし,相手に役に立たなければいけないのだけれども,子どもを見るとか授業を長々と見る経験は意義があるなと思いました。
◆市川◆ 例えば,私たちは学習相談という形で入る。地域の子どもが大学に来ることもあるし,最近は学校に行って学習相談室の中で子どもと会う。子どもにしてみると,外から来た人は評価を行うわけでもないので,気楽に付き合えるおじさんみたいな形になれることもある。我々も半年の間に何回も会って,その子は家でどんな勉強の仕方をしているのか,塾に行くとどんな思いをしているのか,学校ではどんな思いをしているのかと聞く。
我々だとそういう特定の子と深く付き合えて,いろいろな面がわかるメリットもあると感じることもあるのです。
最初のうちは,現場の先生に対して,自分たちは学校を知らない,子どもを知らないというコンプレックスがあったのですが,逆に研究者という立場をうまく使うと学校の先生が見られない面も見ることができる。小学生から高校生まで見ることができたり,いろいろな学校を見ることができたり,研究者ならではのアドバンテージもある。それは活かさなければいけない。それは学生も同様です。
教育心理学の世界
◆市川◆ あと,「学校の先生に対して何か」という話がありましたね。教育心理学の世界に入ってみると最初は違和感があると思う。方法論的にも,少し理科系っぽいサイエンス的なやり方でやっているし,物の見方も教育観も違うのではないかと感じるところがあると思う。どっちのカルチャーにも暗黙の前提みたいなものがあって,それを抱えて入ってくるから最初は違和感がある。「こういう見方を受け入れてみると,自分の授業も変わるかもしれないな」というところを見ていただけるとありがたいと思うのです。
例えば,教師として,教えることは授業でやるものだという信念があります。「教師は授業で勝負する」というわけです。ところが,実際には子どもは授業だけで学ぶわけではなくて,授業でわからなかったことは復習するし,授業をよくわかろうと思えば予習もしたほうがいい。そういう生活のサイクルの中で学んでいる。教師が絶対に授業の中で完結させなければいけないと思うと,かえって子どもの学習が進んでいかないことがある。それで,この子はもしかしたら授業だけではわからないのかもしれない。それならば,授業でわからなかったことは家でも復習しやすいようにプリントの記述の仕方を変えたり,板書の仕方やノートの取り方も教えたりと,授業が終わってからの子どもの学習行動を考えた指導に変わるかもしれない。
アンケートをとると,実は,生徒が予習をすることを嫌がる先生もかなりいるのです。予習をしてきたら自分が授業でやることがわかってしまう。そうすると,生徒は考えないではないかと。ところが,授業に出てもわからなくて50分も過ごしてしまう子にとっては,5分の予習が50分の授業を楽しくするものになります。先生には授業案があって,生徒が授業の中で考えて話し合って「わかった」となるというシナリオがあると思うのですが,実際にはそれに乗れない子もたくさんいます。
その中で,学習行動全体としてとらえるという視点があると授業自体も変わってくると思う。私たちも学校の先生と話していると,「こういうことが大前提となっているから議論が合わないんだ」と感じることがたくさんあるのです。それをお互いに出し合って,先生のほうにしてみると授業が変わる,我々にしてみると心理学の理論をもう少し幅広く見なければいけないというふうに変わったりする。学校の先生にはそういうやり取りを教育心理学会でしようではありませんかと呼びかけたいのです。
◆子安◆ 教育心理学会はその前身から算えて,今年が50年目なのですが,ここにいる4人も大体50歳前後ということで,我々の発達とほぼ同時にこの学会も発達してきた。先のことを考えますと学会60年,70年ぐらいまでは見られるかもしれませんが,その後のことは我々にはわからないので,これから若い人たちに大いに活躍していただきたい。そのきっかけとしてこの『ハンドブック』が使われ,そして『ハンドブック』自体も発達していってほしいということで終わりたいと思います。
どうもありがとうございました。(了)
(後記) 本座談会(上・下)の日本教育心理学会理事長等の役職名は,座談会の行われた2003年5月時点のものであり,現在は改選されています。
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