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2003年6月30日 (月)

書評:『環境運動と新しい公共圏』

長谷川公一/著
『環境運動と新しい公共圏』
2003年4月刊
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長谷川公一著『環境運動と新しい公共圏』を読む

                                       評者・高村ゆかり

   1

 本書は,20年にわたって環境問題や環境運動の〈現場〉を見つめ続けてきた環境社会学の第一人者である著者による,我が国の環境運動の構造と動態に関する多角的検討と,これからの環境運動が創出しうる新しい公共圏に関する社会学的考察を編んだものである。

 本書は,4部からなる。

 Ⅰ部「環境社会学の問題構成」では,1990年代に大きな前進を遂げた環境社会学の研究動向を紹介しながら,21世紀に入って「セカンド・ステージ」に入った環境社会学の課題として,政策科学化・理論的深化・学際化・国際化の4つを提示する(第1章)。本書で展開される環境運動の分析と現代社会に関する考察は,環境社会学のセカンドステージの2つの課題,政策科学化と理論的深化の追究を著者自ら試みているかのようである。そして,環境負財が排出され処理される過程=ダウンストリームへのまなざしに環境社会学のアイデンティティを見いだしている(第2章)。

 Ⅱ部「環境運動の社会学」では,まず,環境問題を4大公害問題をはじめとする産業公害・高速交通公害・生活公害・地球環境問題の4つに分類し,それぞれの問題とそれに関わる環境運動の歴史と特質を概括する(第3章)。そして,「環境というパブリックな課題に対する回路を,新しい公共圏を,「ふつうの人びと」に向かってどう開いていくのか」(59頁)という問題意識から,社会運動論の知見を用いて,環境運動への市民による参加の誘因について考察する(第4章)。つづいて,運動論的視座が独自のアイデンティティを環境社会学に与えているとしたうえで,環境運動分析に社会運動論の3つのアプローチ(文化的フレーミング・政治的機会構造・動員構造)を提示し(第5章),環境社会学における政策研究の意義を説く(第6章)。

 Ⅲ部「環境運動の展開」では,1970年代以降の4つの事例の運動過程とそれに関連する公共圏の特質と限界を分析する。第7章では,70年代の名古屋新幹線公害訴訟をふまえて,公害訴訟の社会的意義と機能,その限界を論じる。第8章では,チェルノブイリ原発事故後の80年代の反原発運動を取り上げ,価値志向性と表出性,自己変革志向性,ネットワーク志向性という「新しい社会運動」の特質を分析する。そして,90年代の新潟県巻町の住民投票と青森県六ヶ所村の核燃料サイクル施設反対運動を対比し,社会運動論の前述の3つのアプローチから,前者の成功要因と後者の困難な状況を分析し(第9章),グリーン電力制度に関する運動に見られる環境運動の政策志向性の高まりを,21世紀の環境運動の特質とする(第10章)。

 そして,これらの分析をふまえて本書の中核である著者の現代社会論が,Ⅳ部「市民セクターと公共圏の変容」で展開される(第11~18章,終章)。著者によれば,日本の環境運動は,政策決定過程の閉鎖性ゆえに,告発・抵抗型の運動に留まりやすく,政策的な対案提示能力を高めにくかった。そのために,運動の資源動員能力が限界づけられてきた。しかし,国際化・情報化などを契機に,日本の環境運動や環境NGOも,専門性と政策志向性を強めつつあり,政府・行政,企業との間で,〈対等で,領域横断的で,プロジェクト限定的で,透明で開かれた協働作業・協働関係〉=〈コラボレーション〉が構築されつつある。このような環境運動の展開は,環境に関する新しい公共圏の創出,公共圏の構造転換をもたらしうる。ここで著者がいう「公共圏」とは,公衆としての市民による公論形成の場,社会的合意形成の場であり,新しいパブリック(公共政策に係わる政策的公準としての公共性)を生み出す場である。著者は,このような新しい公共圏の担い手としての環境運動と環境NGOの役割を期待し,ここに,現代日本社会の「経済成長と産業資本の世紀」から「環境と市民の世紀」への価値転換と政治的機会構造転換の契機を見るのである。

   2

 残念ながら,評者は社会学の学問的トレーニングを受けたことがなく,社会学的観点から本書を論評するすべがない。著者が政策科学化と学際化を環境社会学の今後の課題として積極的に提示されているのに甘えて,ここ数年地球温暖化をめぐる国際交渉を追い,国内外の様々なNGOとその活動を知る機会を得た経験から本書の感想を述べてみたい。

 さて,評者がまず関心を寄せるのは,専門性と政策志向性を強めつつある環境運動の新しい動向のさらなる発展の要因を何に見いだすのかという点である。著者は,「被害者および被害者支援運動中心の批判・告発型の運動から政策志向的な,さらにはコミュニティ・ビジネス志向的な運動への大きな転換の動き」(「はじめに」)と「体制内に参入し政府や企業体の政策決定過程に深く関与し,体制内部で変革のオールタナティブを提起する」(228頁)コラボレーションの段階への移行を新しい動向と位置づけている。確かに,このような動きは生じているが,その広がりはなお限定的である。運動が取り扱うイシューによっても新しい動向の現れ方は異なる。また,政策の転換に結びついたコラボレーションの事例は必ずしも多くはない。とりわけこれまで成果をおさめたコラボレーションの多くは,厚意的に耳を傾けてくれる自治体の首長や企業幹部の存在に大きく依拠しているように思われる。「人」が変わっても継続し,広がりをもったコラボレーションの構築には何が必要であろうか。

 他方で,政府・行政の力が強く,市場主義的産業主義の強い我が国においては,本書も紹介する環境運動の制度化がもたらしうる体制編入の問題(249頁)が一層切実に懸念される。圧倒的な資源動員力を有するコラボレーションの相手方(行政・企業)と,いかに対等な共同作業を確保するのか。行政・企業にとって都合のよい環境運動にのみコラボレーションの機会が選択的に与えられるのではないか。著者も指摘するように,「参加・参画の場を保障しないところでは信頼感をもとにした合意」(184頁)を得ることは難しい。おそらく「緊張関係のあるコラボレーション」のためには,対等で開かれた関係を保障する制度的な条件づくりが不可欠であろう。その第一歩は,市民への情報開示や政策決定過程への市民参加が,行政や企業の「恩恵」によって行われるのではなく,保障されないならば法的手段に訴えて実現しうる市民の権利として保障されることではないか。本書で紹介されている仙台市民オンブズマンの活動(238頁以下)が,情報公開制度と専門的な分析能力を武器として,行政側と対抗する新しいタイプの運動を生み出した事例は,それを示唆するものとして興味深い。

 評者の2つめの関心は,新しい公共圏として公論形成を担う機能を果たすことが期待される環境運動とそれにかかわる専門家の役割と課題である。まず,環境運動は,運動の参加者に対して,対等性と運営の透明性・民主性を確保することが求められるだろう。公論形成の場としての公共圏への対等なアクセスが保障されなければ,「公共圏」とそれが生み出す「公共性」の正当性を疑わしいものとしてしまう。著者も指摘するNGOの地理的偏在は,公共圏へのアクセスの地理的不平等を引き起こしうる。環境問題の国際化に伴って形成される国際的な公共圏では,資金的・人的資源の制約から困難の多い途上国の市民の公共圏へのアクセスをいかに保障するかが重要な課題である。

 さらに,イシューごとに創出されるであろう公共圏が,環境問題の全体性や相互連関性に対応した包括的な視角をもつことも求められるだろう。例えば,東京における温暖化対策を考える際に,東京での都市開発計画のありようや,東京で消費される電力の大半が東京都外で発電されているといった利益の享受と環境リスク負担の不均衡を考慮できる視角である。環境問題の国際化は,視野の国際的広がりをもまた環境運動に要求している。

 このような環境運動への要求は,運動に関与する専門家の役割を否応なしに増していくだろう。しかし,他方で,専門家が市民不在のまま,政策提案や行政や企業との間のコラボレーションを進め,「市民」参加の名の下に政策形成が行われるということになれば,環境運動は「エリート支配」の道具へと形を変えてしまう。専門家のモラルの大切さはもちろんのこと,市民社会が成熟していない我が国においては,参加する市民による絶え間ない支援と監視が機能するしくみをいかに育んでいくかが,「公共圏」としての環境運動の発展に必須の課題であろう。

   3

 最後に,本書のもう1つの焦点である環境社会学の到達点と課題についてふれておこう。著者が提示する環境社会学の課題はその多くを環境法学も共有している。必ずしも政策志向性が高かったとは言えない伝統的な法律学に対して,環境法学は全般に政策志向性が強く,多様で学際的なアプローチが追究されてきた。その反面,その体系化と学問アイデンティティの確立は途上にある。正直なところ,評者じしんも「国際環境法」の研究者としてのアイデンティティと「国際法」の研究者としてのアイデンティティとの間の距離拡大を感じ,とまどいもある。国際環境法学も,環境社会学と同様,その理論的深化が求められており,伝統的な法理論から何を学びとっていくのかが今まさに問われている

 また,著者による公害訴訟や住民投票の社会的意義や機能の分析は,法律学の研究者にとっても示唆に富んでいる。地球環境問題の登場に伴う国際的立法・政策形成過程の分析をはじめ,環境分野においては学際的アプローチが不可欠な研究課題が少なくない。各学問領域での理論的進化とともに,関連学問領域との共同作業をどう構築していくかも,私たち研究者の課題である。

 本書は,環境運動と政策形成のダイナミズムの分析という最も今日的な課題の1つを扱っており,環境社会学者や環境社会学を学ぶ人はもちろん,環境運動の担い手や政策担当者にも,また,環境問題・環境政策を研究対象とする法律学,経済学など他の学問分野の研究者にも多くの示唆を与えてくれるだろう。現代の環境運動の分析から日本の政治構造,社会構造のありようをも問う本書は,環境以外の分野で研究し活動する人にもぜひ読んでいただきたい一冊である。

                  (たかむら・ゆかり=静岡大学人文学部法学科助教授)

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